第31話【距離感】

「あの......お口に合わなかったでしょうか?」


 仕事を終え、自宅で夕食を摂っていると、上の空な俺に凛凪りんなさんがおずおずとうかがってきた。

 

「......え? あ、いや、そうじゃないんだ。ちょっとぼーっとしちゃって。季節の変わり目だからかな」


「そうですか。店長のお仕事もお忙しいようですし、あまり無理はなさらないでくださいね?」

「ありがと」


 労いの言葉をかけてくれる凛凪さんに軽く微笑みかけ、止まっていた箸を動かし、お椀に盛られたトマト鍋の具を食す。

 真っ赤な池に浮かぶ彩り豊かな食材を眺めながら、俺の心はまた今日起きた一連の出来事へと引っ張られる。


 凛凪さんと思しき人物の写真を持って挨拶にやってきた、コンセプトカフェのオーナーと名乗る『久世くぜ』という怪しい男。


『この店には、体を売ってる錬成人間ホムンクルスがいる』


 ほぼ同じタイミングで店のSNSに書き込まれた、不特定な人物からのコメント。

 うちには錬成人間は一人しかいないので、これは凛凪さんのことを指しているのはわかるんだが......どう見てもこれは悪戯いたずら範疇はんちゅうを超えている。


 錬成人間の女性は国の法律で、性風俗の職に就いてはいけない厳しい決まりがある。

 体の構造上、妊娠をする心配のない錬成人間が悪用されることを防ぐために定めたものだ。


 仮にあの写真の人物が本当に凛凪さんだとして、記憶を失う以前、過去に何があったかなんて知る由がない。が、これは明らかに店から追い出そうとしているのは明白だ。


「こんな蒸し暑い季節に何故トマト鍋、なんて思ってません?」

「そういえばそうだね。なんでまた」


 凛凪さんが語りたげな表情で口を開いたので、不安は一旦隅に置きその話に乗ることにした。


「鍋は相手ともっと仲良くなるためのツールに最適だと、お昼の情報番組でやっていたものですから」


「ああ。一つの鍋をみんなでつつくと距離感が縮まるっていう、心理的効果の一種のやつね」

「その通りです」


 鍋に限らず、一つの料理を取り分けるものは相手との距離が縮まりやすいと、大昔に大学の講義で学んだ覚えがある。

 ただ栄養を補給するのにだけ必要な、自然の摂理に過ぎない行為を、相手との絆を深めるために利用するのは人類くらいなものだろう。


「でも、俺なんかとこれ以上距離が縮まっても何も面白くないと思うけど」

「もう......和人かずとさんは何も女心をわかっていませんね」


 唇を尖らせた凛凪さんは言葉を紡ぐ。


「和人さんは、自分が思っている以上に充分魅力的なお人だという自覚をもっと持つべきです。一緒の職場で働くようになって、そのことが確信に変わりました」


「んな大袈裟な。前にも言ったけど、レトロゲーム屋の店長って言ってもやってること地味だし、所詮は中間管理職だから給料もそこまで高くないよ」


「ステータスや稼ぎの問題ではありません。現に有坂さんや一ノ瀬さんたちから慕われているじゃありませんか」


 一ノ瀬さんはともかく、有坂さんは慕うというより、実家にたまに帰ってくる年の離れた兄貴の扱いみたいなノリに近い気がするんだが。

 それに慕われていたら、最近辞めた二人は

俺の『喧嘩するな』の忠告を素直に守っていただろうに。


「あれくらい普通だよ。俺は基本、余程のことがない限りは仕事の面で注意することはないからね。変に厳しくすると萎縮しちゃって、お互い仕事がしずらい空気が生まれるし」


「そういうことが言いたいのではなくてですね......もういいです」

「......なんかすいません」


 話の意図が上手くみ取れず、呆れさせてしまった。 


「お店では和人さんは皆さんのものですが、家では私一人が独占できます。でしたらそんな方ともっと仲良くなりたい・距離を縮めたいと思うのが当たり前の流れではありませんか」


「そういうものなの?」

「そういものです!」


 珍しく声を強める凛凪さんに肩をすくめる。


「――それに私がここまで料理を好きになったのは、和人さんのおかげなんですよ?」

「え、凛凪さんって元々料理が好きなんじゃなかったっけ?」

「いえ。特にそういう気持ちは」


 いつも楽しそうにキッチンに立っているものだから、偏見として勝手にそう思い込んでいた。


「疲れた顔をして帰ってくる和人さんが、私が作った夕飯を食べると顔色が良くなり、声にも張りが戻る――こんな作り手冥利に尽きることはありません」

「......俺、そんなに毎日、疲労困憊ひろうこんぱいって顔してるんだ」

「今度帰ってきましたら、洗面所の鏡でよくご覧になってみてください」


 鼻をスンと鳴らし微笑む凛凪さんにドキっとし、俯きながらお椀の中の汁をすする。

 人を観察するのは慣れているが、逆に観察されるのは慣れていないので堪らなく恥ずかしい。

 トマトの酸味がそんな羞恥の感情を気持ち中和してくれる。


「そうだ。次回、千里ちさとさんが泊まりに来た時もお鍋にしましょう」

「鍋奉行のあいつと鍋か......凛凪さんも勇気あるね」

「大丈夫です。その時までには研鑽けんさんを重ねて千里さんの満足の行く鍋をご用意致しますので」


 いや、鍋奉行って味にうるさいのではなく、マナーにうるさいことを意味するんだよなぁ......。


 しっかりしているようでやはりどこか抜けている、我が家の家事担当の天然同居人。


 その笑顔を壊したくはない――そう思ったら今日店で起きた出来事を話せるわけがなく。

 言葉に言い表すことができない感情は、何が何でも守れと、そう俺に決意を固めさせた。

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