第19話【誘惑】

 心臓の鼓動の高鳴りが、遠くで聴こえていた雨の降りしきる音をかき消す。

 眼前には風呂上がりで上気し、艶やかで色っぽい凛凪りんなさん。髪が幕となって左右を塞ぎ、まるでこの世界に二人きり。互いの呼吸を感じられるほどの距離で見つめ合う。

 

「......それってどういうこと?」


 精一杯絞り出した声で凛凪さんに問う。

 こちらの考えを見透かしたような、妖艶な微笑むをたたえる凛凪さんは、普段と全く雰囲気が別人と言っていいレベル。形容しようがない、どこか怖さに似た感情も芽生える。

 

「言葉どおりの意味です」


 小さく抑揚のない言葉が、心の隙間にするりと入り込む。


「私は、和人かずとさんのことが好きですよ。優しくて頼りがいもあって、一緒にいて安心できる。きっと恋人にするなら、和人さんみたいな方が一番理想的なのかなと」

「俺みたいな男、その辺にいくらでもいるでしょ」

「そう謙遜しないでください。誰も和人さんの魅力に気づかないだけです」


 そのせいで俺は30歳を過ぎても未だに経験値ゼロ。たまねぎ剣士から強制的に魔法使いにされた。凛凪さんなら俺の全てを受け入れてくれるというのか?

 気持ちの良い言葉が内部に侵入した先兵たちと合流。徐々に思考を惑わし、朦朧もうろうへと追い込んでいく。


「それとも和人さんは私のこと嫌いですか?」

「そんなわけない」

「でしたらいいじゃないですか。こう見えても私、好きな人にはとことん尽くすタイプなんですよ?」


 顔をゆっくりと近づけ、さらに距離を縮める。


「怖がらないで......すぐに気持ち良くしてあげますからね......」


 童貞を捨てらて凛凪さんも救える――一石二鳥のチャンスじゃないか。何を躊躇う必要がある? もういい加減初恋は諦めろ! でも――。

 走馬灯のように凛凪さんと暮らす日々の記憶が駆け巡り、時間の流れが止まったような中――ふと出会いの記憶がフラッシュバックした瞬間――気付いてしまった。


 ああ......俺って思ってたより最低の人間、クズだわ......千里ちさとよりも錬成人間ホムンクルスを差別していたのは誰でもない、俺じゃないか......。


 きっかけはほんの些細だ。

 捨てられた子犬や猫を拾う感覚よりほど遠い、例えるならそう、好きなグラビアアイドルの写真集が捨てられているのを拾った青臭い少年の感覚。正義感とは対照的な、欲にまみれ何かを期待した末の行動だ。

 俺には凛凪さんの気持ちを受け入れる資格は無い。

 それに記憶を失い、頼れる者が自分しかいない弱みに漬け込むのはフェアじゃない。

 凛凪さんには幸せになってほしい故の結論だった。

 無言で迫る肩に手を添え、体を押し返しながら自身も上体を起こす。


「......和人、さん?」

「俺も凛凪さんのことは好きだけど、但しそれは同居人として好きであって、それ以上ではないんだ」


 放心状態の凛凪さんの目を見ながら、気持ちを整理し、言葉を紡いでいく。


「俺はあの日、珍しく酷く酔っぱらっちゃってさ。駅に着いてもまともに歩けないくらいに。自分だけが何も変われず、周囲から置いてかれた気分になって落ち込んで、人生に本気で絶望すら感じてた......そんな時に凛凪さんと出会ったんだ」


 電柱の下、ゴミ捨て場として利用される場所で眠る彼女が、なんとなく童話に出て来る眠り姫か何かに見えたんだろうな。酔っ払った俺には。


「本当は一人暮らしの寂しさと孤独を紛らわしたかったのに、勝手にヒロインを助けたヒーローを気取りやがって......最低だよな。凛凪さんは俺の欲望を満たすための道具じゃねぇっつうのに」

「.......」


 俺の言葉に黙って耳を傾ける凛凪さんは微かに肩を震わせ、でもしっかり俺の目を見て向き合ってくれている。


「ヒーロー気取りついでにこれだけは言わせてほしい。約束は絶対に守る――凛凪さんを家から追い出すようなマネはしない。いや、させない」

「ですがそれでは和人さんの立場が」

「ああーいいのいいの。俺の立場なんて生まれた時から暗い海の底に沈む埋蔵金のようなもんだし。浮上することはまずないかから」

「埋蔵金でしたら、誰か引き上げてくれる方がいるのでは? 」

「......ごめん。訂正させて。他にいい喩えが見つからなかった」


 カッコ良く宣言したつもりが、余計な小細工を入れてまったく台無しだよ。

 慣れないことはするもんじゃないな。

 でもそれが俺たちの普段の会話らしく、合図したわけでもないのに自然とお互いの口から笑い声がこぼれ出した。


「......本当に、よろしいんでしょうか?」

「ああ。だから凛凪さんの気が済むまで家にいていいよ」

「............はい。これからもお世話になります」


 目に浮かんだ涙を拭い、とびきりの笑顔で微笑むのが照れくさくて、凛凪さんは誤魔化すように鼻の頭を指でこすった。

 誰かに手を伸ばすという行為は、時に責任が伴う。

 ましてや、彼女は錬成人間。

 俺の想像も及ばない、何か特殊な事情を抱えている可能性は、必ずしも無いとは言い切れれないだろう。

 覚悟――そんなご立派な腹を持てたらどんなに人生楽なことか。

 虚勢を張って少しでも彼女が笑顔になってくれるなら、俺はいくらでも道化を演じてやろうと、その場に背中から寝ころんだ凛凪さんに誓った。


「はしたなくてすいません。安心したと思ったら、急に力が抜けてしまいました」

「じゃあ俺もマネしよっと。ラブホの大きなベッドで大の字に寝るの、実は一度やってみたかったんだよね」

「和人さん」

「なに?」

「本音は「急に生活水準下がっても耐えられる自信ないしなぁ」そんな風に思ってません?」

「......ノーコメントでお願いします」


 時折、彼女は核心を突く。

 凛として凪――名前の通り凛とした雰囲気の中に、優しい風が吹く同居人の名前だ。

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