第20話【朝帰り】

 早朝。

 駅の方向に向かうサラリーマンや学生たちの波に逆らうように、俺たちは反対方向へ黙々と歩いて行く。朝日を浴びながら。


 昨日は驚くほどよく眠れた。

 誰かと一緒の寝床で寝るなんて、いつ以来だ?

 いつ以来も何も、もしかしたら生まれて初めての経験かもしれない。

 多少距離は空けて寝ていたが、それでも凛凪りんなさんの温もり、息遣いが布団を伝って俺の元へ届く。彼女が生きていることの証を肌で実感できた。

 凛凪さんもよく眠れたようで何より。

 いつも早起きな彼女より俺の方が先に起きるのだから、余程精神的に疲れていたことが窺える。

 もっと寝かせてあげたかったところだが、あれ以上の滞在は延長料金が発生してしまう上に、家では今回の騒動の発端を作った張本人が早く帰って来いと待機中。


 そう、これから千里ちさとの奴を説得しなくてはならない。

 凛凪さんを恋人としてではなく、友人として住まわせ続けるため――例え千里とも疎遠になってもいい覚悟を、俺は凛凪さんの前で誓ったんだ。

 凛凪さん自身も、


「私の方からも千里さんにお願いしてみます。和人かずとさんにお世話になりっぱなしでは、同居人としての面目もありませんので」


 と、説得に前向きの姿勢。

 正直、昨日の拒絶一辺倒の相手を丸め込めるかなんて自信はない。

 どんなに正論を並べられようが、社会の倫理に反することであろうが、それでもやるしかないんだ。

 凛凪さんを守るために――具体的な打開策も何もあったもんじゃない、シンプルに気持ちと勢いで乗り切ってやる――。


 アパートの前に到着し、何気なく隣の凛凪さんの顔色を窺ってみると、案の定表情は強張り、落ち着かない様子で太ももの横に添えられた手を小刻みに動かす。


「大丈夫」


 安心させるように片方の手を握ってあげると一瞬肩がビクっとしたが、俺の顔を見るなり「はい」と穏やかな微笑みで返してくれた。

 凛凪さんの笑顔には、不思議と人を安心させる効果がある。

 勇気づけるつもりで取った行動が、逆にこちらが勇気づけられてしまい、胸が熱く呼応る。


 階段を上り部屋の階の共用廊下までやってきて、二人揃ってある異変を感じ取った。

 どうも焦げ臭いが漂う。しかも俺の住んでる部屋の方向から。

 小走りでドアの前までやってくるや、なんの躊躇ちゅうちょも無くドアノブを回し開ける。


「二人とも帰ってくるの遅すぎ」


 キッチンのシンクの上には無残に割られた卵の殻たちが散乱し、千里の手元のフライパンからは黒い煙が換気扇に吸い込まれるよう立ち上っていた。


「......何してんだ、お前」 

「見てわかんない? 朝食の準備中」

「俺はてっきりダークマターの錬成でもしてるのかと」

「は?」

「そんなことより千里さん! 焼き過ぎです! 火を止めてください!」


 一足先に靴を脱ぎ、凛凪さんは慌ててコンロの火を止めに入った。

 ジューっという水道の水で冷やされたフライパンが悲鳴を彷彿とさせる音を上げ、室内も焦げ臭さが鼻につき、堪らずベランダの窓を開けて換気を行う。


「目玉焼き作るのって、こんなに難しいんだね。毎日凛凪ちゃんが簡単に作ってるから、私にもできるものだと思ってたけど」

「どういう風の吹き回しだよ。そもそもお前、料理なんか学校の調理実習以外でやったことないだろ」


 よく見れば、コンロの横の皿には目玉焼きになる予定だったと思われる、平べったく黒い何かが積み上げられていた。おぞましい負のオーラを放ちながら。

 実家には俺たち兄妹が幼少期の頃からメイドさんがいて、その人が掃除・洗濯・炊事の全てをこなしてくれていた。

 大学から一人暮らしを始めている俺はともかく、今でも実家暮らしの千里に料理スキルが皆無なのは当然。なのに何故やる?

 料理とは、無知な人間に良い結果をもたらしてくれるほど甘い作業ではない。

 俺も最初の頃は火加減の調整が上手くいかず、よく焦がしたものだ。

 それでも、このような円盤型ダークマターの量産をした経験はないが。


「......昨日のお詫び」


 俺と凛凪さんが換気と処理に躍起になっていると、千里がボソッと視線を横に向け呟く。


「......私、凛凪さんに酷いこと言ったから。そのお詫びに、朝食でも用意しようと思ったらこのざまで......ごめん」

「いいんですよ。そのお気持ちだけで充分です。私も和人さんとの関係と、錬成人間ホムンクルスであることを黙っていたのがいけないのですし」


 ――驚いた。

 謝るくらいなら多少強引でも論破に持ち込んで勝利を掴むあの千里が、こうして素直に詫びを口にする――たった一週間足らずでこの気難しい千里を懐かせた人柄にも驚いたが、凛凪さんからは人を大らかにするマイナスイオンでも出てるんじゃないだろうか。

 

「良かった。幸い一人分の目玉焼きの材料は残っていますね」

「でもフライパンはどうするの? ここまで焦げがこびりついてたら上手く焼けないんじゃ?」

「その心配はご無用です」


 冷蔵庫の中を覗いていた凛凪さんが得意げに宣言した。


「確かシンクの下の棚奥にほぼ未使用の鉄鍋がありましたよね?」

「あー。そういえば」


 言われて思い出す。

 2・3年前だったか、何を血迷ったのか突然「家でも本格的なチャーハンを食べたい!」衝動に駆られ、ネットでチャーハン用の鉄鍋を買ったんだっけ。

 使ったのは一度きり。

 調理をするタイパとコスパを考えたら外食で食べた方が断然良いもので。

 まぁ、思いつきで買った調理道具の末路としては定番の冷暗所奥だよな。


「鉄鍋でも目玉焼きは充分焼けます。むしろステンレスのフライパンで焼くより鉄分が多く含まれるので、女性にはそっちの方が良かったりします」

「へー。さすがは我が家の家事担当」

「いえいえ。大急ぎでいま作りますので、和人さんはサラダの盛り付けを。千里さんはトースターでパンを焼いてもらってもよろしいでしょうか?」

「お安い御用で。千里もそのくらいできんだろ」

「バカにしないでもらえる? たかがパンを焼くくらい、私にもできるし」


 たかが目玉焼きも作れなかったダークマター製造機が何か大口を叩いているが、無視しよう。

 俺たち兄妹のやり取りを笑顔で見守り、テキパキと指示を出してくれる、我が家の家事担当の凛凪さん。

 千里を説得する予定のはずがわだかまりは消え、なんだかいつもの他愛のない会話で始まる朝みたいになってしまった。多少騒がしくはあるが。





「――そうだ。私、今日から実家に戻るね」


 一人分の目玉焼きを三人でシェアした朝食を食べ終え、仕事に向かう準備をしていると千里が思い出したかのような声で告げてきた。


「もういいのかよ監査は」 

「あんまり長居すると母さんが本気で怪しむでしょ。それに......まぁいいや」

 

 俺と凛凪さんの顔を交互に見たあと、言葉を呑み込み諦めた。

 先が気にはなったものの、千里の言う通り母さんに本気で怪しまれるのは少々面倒だ。

 上手く誤魔化してはいるみたいだが、現状これ以上変に刺激するのはこちらとしても得策ではない。揉め事は極力避けるに限る。


「寂しくなりますね......またいつでも帰ってきてください。その時は千里さんの大好きな料理をご用意してお待ちしていますので」

「いや帰ってくるも何も。私の実家は向こうなんだけど」

「だとしても千里さんは和人さんの妹さんで、この家の家族ですから」


 ナチュラルに家族発言されて、千里は誰の目から見てもはっきりと耳まで顔を真っ赤にした。


「和人、職場の最寄駅まで車で送ってあげる」


 羞恥で唇を歪ませながら俺へと話を振る。このツンデレめ。


「え、いいのかよ? あれほど頼んでも嫌がって乗せてくれなかった千里が。どうしたんだ?」

「一宿一飯の恩義」

「......数字の数、間違ってるぞ?」

「細かいことは気にしない。そろそろ出ないと渋滞に巻き込まれるから。さっさと準備する」

「はいよ」 


 せっかく訪れた妹の車に乗るチャンスだ。この機会を逃す手はない。

 機嫌が悪くならないうちに出勤の準備をするために仕事着に着替える。

 と言っても、うちの店は私服OKな会社なので特別仕事着というものがあるわけでもなく。上は無地のパーカーに下は使い古したジーンズの、汚れても構わない定番の服装だ。

 メディアからの取材依頼・撮影なんかがある日はパーカーからポロシャツにクラスチェンジするが、今日は特にそういった予定は入っていない。極普通のそこそこ忙しいであろう平日。


「それじゃ凛凪さん、今日も留守の間よろしくね」

「はい。ふたりともお気をつけて。いってらっしゃい♪」


「「行ってきます」」


 いつもと変わらぬ行ってきますの挨拶を交わし、微笑みを浮かべながら手を振る凛凪さんに見送られ、俺と千里は揃って部屋をあとにした。

 その様子が遠い昔に憧れていた、子供の通学を見送る母親のようだと感じつつ――。 

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