第2話【具なし味噌汁】
前日を何時に寝ようが、俺の身体は毎日午前7時丁度に目を覚ます。
理由は簡単。トイレタイムだ。我ながら優秀な体内時計と褒めるべきなのか。
目覚ましアラームの鳴る一時間半前に起きてしまうのは勿体無いので、どうにかして時間ギリギリまで眠りにつけるよう努力はしてみた。一週間ほど努力してみて、それが無駄であることを重い知らされた。
でも今日ばかりは、改善できたなかったことがむしろ功を
「おはようございます。もうすぐ朝食のご用意ができますので」
キッチンの横を通り抜けトイレに向かおうとした寝ぼけ
「おはよう......!? え、誰!?」
振り向いた彼女は不思議そうに小首を傾げる。
さらさらとなびく極上の絹糸のような髪。血色の良い顔の上にちょこんと遠慮がちに、でも存在感のある整った鼻立ち。
味噌の匂いに混ざってやってくる、上品なフローラル系の風。
――そうだ思い出した。
昨晩彼女を拾い連れ帰ってきた俺は、再起動させようと以前職場のアルバイト女子から誕生日プレゼントで貰った携帯用プラーナを吸わせたんだった。
目覚めるまでの間、小休止のつもりでベッドの上に横になったつもりが、逆にこちらが完全にガチ寝をしてしまったらしい。
この様子だと、再起動は無事に成功したようだ。
「あなた様が私を眠りから目覚めさせてくれたのですね。ありがとうございます」
「いえいえご丁寧にどうも......じゃなくて!」
「それよりも朝のお勤めはよろしいのでしょうか? 我慢されるのは身体に毒かと」
「......5分待ってて。すぐ戻るから」
訊ねたいことが山ほどあるが、俺の
くすりと笑い「はい」と応える彼女の視線を後ろに感じながら、俺は朝のお勤めとやらを済ませるため玄関横に設置されたトイレに入った。
難産からリビングに戻って来ると、テーブルを挟んで座布団が両方に敷かれ、台所側に座る彼女が姿勢の良い正座で出迎えた。
ウチで使っている座布団は、紺に白い
疑問に思い部屋の中をさらっと見回し、謎が解けた。
部屋の片隅に飾っていた、ぬいぐるみ用に100均で買った小さい座布団が消えていた。
すまない。いまだけは彼女に貸してやってくれ。
純粋なまん丸目玉のワニ型モンスターが、ほげーと口を開いたままこちらを見つめる。
「やっぱり、何も覚えていない感じ?」
「......残念ですが」
申し訳なさそうに彼女が頷く。
錬成人間はプラーナが完全に切れると強制的に仮死状態、深い眠りに落ちてしまう。
さらにそこから72時間が経過すると、それまでの記憶が消去。つまり機械でいう初期化に近い状態に戻されてしまう。
おまけに彼女は身分証も持たず、手がかりになりそうな物は何一つ持ち合わせていなかった。
「記憶は思い出せませんが、過去に体験した経験は自覚の無い記憶として残っています」
「なるほど。だから料理はできると」
「あとは家事に、男性を喜ばせるための行為等も少々」
危うく朝食兼お茶代わりに飲んでいた味噌汁を拭きそうになった。
性とは無縁そうなおとなしい顔で、特に恥ずかし気もなくさらっと言う。
朝を告げるスズメたちの朝チュン音までもがむせる俺をからかいやがる。
「ところで話は変わるんだけどさ」
「はい、何でしょう」
「この味噌汁、どうして具が入ってないの?」
「理由は単純です。冷蔵庫に具材になるような物が全く入っていなかったからです」
気まずさに負けて話を逸らしてみたが、30歳・一人暮らし男性の悲しい台所事情を口にされ、微妙な空気をさらなる追い打ちがかかる。
「でも、ただ味噌を水に溶かすのは寂しかったので、隠し味にチューブの生姜を少々入れてみました。二日酔いの身体には丁度良いかと」
「お気遣いどうも」
「いえいえ。一宿一飯の恩義としては全くの不十分で申し訳ございません」
どこの何者かわからない彼女にフォローされてしまう自分が情けない。
言いわけさせてもらうと昔はちゃんと自炊してましたよ。昔はね。
最近は店長業務が忙しく、帰ってきてから作るのも面倒になり、気付けば冷蔵庫の中はほぼミネラルウォーターと缶ビールが占領。あと時々、コンビニで買ったおつまみが加わる程度だ。
「改めて、私を助けていただきありがとうございます」
「礼なら昨日の酔っ払った俺に言ってくれ。それでなんだけど、キミはこれからどうするつもり?」
「どう、と言われましても。どうしましょう?」
質問に質問で返されてしまった。
「さっきも言ったとおり、俺は昨日、偶然行き倒れていたキミを助けただけだ。あと決してやましい行為はしてないから。安心して」
「そのようですね。着衣が乱れた形跡もありませんし......ではこれから始めましょうか」
「始めないよ! なに涼しい顔で言ってんの!」
この子......性に関して恐ろしく緩すぎだろ? どんな教育されてきたんだ?
シャツのボタンを上から外そうとする手を慌てて止めに入る。
「見返りが欲しいのでは?」
「んなもんいらないから! あくまで俺は気紛れの善意でたまたまキミを拾っただけ!」
「だとしたら、いつまでもあなた様にご迷惑をかけるわけにはまいりません......あ」
正座から立ち上がろうとした彼女はふらつき、軽く尻もちをついて倒れた。
「まだ無理しない方がいいって。その様子だとまともに食事も取ってないんでしょ」
プラーナもまともに補給できない状況では、食事だって当然満足に取れてはいない。今日一日くらいは家で休ませておいた方が彼女のために良さそうだ。
「申し訳ございません。体力が回復次第、こちらをすぐに出て行きますので」
「とりあえず先のことはいいから。俺、今日はこのあと仕事があるからさ......これで何か美味しい物でも頼んでゆっくりしてな」
そう言って俺は、ベッドのヘッドボードに置かれた財布の中から5千円札を抜きとり、テーブルの上に置いた。
「そんな。恩をもらってばかりでは困ります」
「恩を貰うとか見返りがどうとか、そんなもんどうでもいいから。黙って言うこと聞きなさい」
「......はい」
「なんで笑ってんの」
「いえ、面白い方だなぁと」
根拠は無いが、不意に見せた彼女のふわっとした笑顔に、悪い錬成人間ではなさそうだと直感的に感じ取れた。
記憶は失っていても、人格そのものは彼女の中に
それを信用してみよう。
「ではお仕事前に、私が元気の出るおまじないを――」
「ちょーっと待った! ......何するつもり?」
彼女は両手・両膝で四足歩行の動物みたいに俺の元までやってくるなり股間に手を伸ばすも、間一髪、僅か数センチの距離でこれをなんとか防いでみせた。
「ですから、せめて元気が出るおまじないをと。あなた様の元気だけでなく、私のタンパク質の補給にも繋がるので一石二鳥なんですよ?」
「タンパク質の補給は肉か魚で正しく補ってくれ!」
耳にかかった長い横髪をかきあげ、上目遣いで呟く彼女に、俺の息子は正直な反応を示してしまう。
これから朝の通勤電車に乗るんだから勘弁してほしい......。
そんなことを思いながら、彼女が作ってくれた具無し味噌汁・生姜風味を全て飲み干してみせた。
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