第2話 長靴を履かされた猫

そうそう―

申し遅れる所であったが、かの猫好きの商人にも

きちんとした名前があって、

その名を芦屋兵平衛(あしやひょうべえ)と申し、

二人の跡取りがおった。

兄、庄平衛(しょうべい)は経営の才にもすぐれ、

江戸でなかなかよろしくやっているようであったが、

弟吉平衛(きちべい)は、ひねもす猫の世話ばかりして、

ろくに働きもしなかった。

しかれども猫好きの父にはかえって孝行者として

兄よりも寵愛を受けていた。

かといって兄、庄平衛が、邪険にされる事もなく、

また家族が、そのような事でいがみあうような事は

少なくともなかった。

さてそのような平穏な日々をすごしておった彼らでは

あったが、兄、庄平衛もそろそろ嫁をもらわねば

世間体もあろうと、あちこち親戚やらも

うるさくなってきていたので

仕方なしに江戸でも、そこそこ名の通った商人の娘と

結婚し、それはそれで良かったのだが、ますます商売に

精を出し、父や弟とは滅多にあえなくもなり、

またその資産も父をも凌ぐほどになりはじめていた。

いっぽうの吉平衛も、本来なら嫁をもらってもよい年頃で

あったが、猫好きがこうじて、見合いにすら

五匹ほどの猫を連れてきては、猫ばかり相手にするもの

だから、相手も唖然とさせられて

縁談はことごとくうまくはいかなかった。

ところがある日の事である。

もとより阿蘭陀(オランダ)と交流もある父が

ふと摩訶不思議な話を耳にしたのである。

それは長靴を履いた猫が大活躍をし

一国一城の主にまで上り詰めるという話であった。

この時代、長靴などというものは滅多に見られぬ代物で

あったが、兵平衛は、さすがに交易商だけあったので、

ふと長崎は出島に、よくいる南蛮人らが履いているあれに

相違ないとわかり、早速に牛革で、猫の後ろ足に、

すっぽりとはまる長靴を作らせては数匹の猫に

履かせてみた。

ところが、どの猫も足をぶるぶると震わせて、

それを脱がさんとただ必死になるばかり。

息子の吉平衛も何となく可哀想になってきて、

「これは猫たちの心象にも悪いように思います」と

父に言った。

はて、聞いた話とはずいぶん相違がある。

確か猫は長靴を履かされて喜んだはず。

所詮は南蛮人の作り話であろうかとも思ったが

まずは聞いた話通りの段取りを踏むべきかと、吉平衛を

人の往来もはばからず、神田川で沐浴させては

「私の服は何処へ行ったのか?」などと言わせても見たが

どこぞの阿呆が、季節外れに川で沐浴するものかと

道行く人も呆れるやら、くすくすと笑うやらで、結局

何処ぞの城主の娘やらも現れず、吉平衛は寒空に

無理もたたってすっかり風邪で寝込んでしまった。

そんな訳で結局は、猫たちに履かせた長靴も無用となり、

ただ吉平衛が風邪をこじらせたばかりでもあったが、

やはり世には変わり者も居るものである。

寒空の下、猫好きな男が南蛮の妙な噂を耳にして

それを真に受けて沐浴していたのを

しっかり見ていた一人の娘が居た。

娘はおおまかに事の成りを聞いて、

「何と馬鹿正直なお方も居るもの」と

口には「馬鹿正直」と悪いように言っているが、

むしろそれに感動し、ぜひとも芦屋家の箒(ほうき)と

塵取りを持たせてたもれと、熱烈に門戸を叩いたので、

父兵平衛も吉平衛も、そろそろ頃合であろうと

この娘を嫁に取る事にした。

はたして―

類は友を呼ぶのとおり、この娘も無類の猫好きで、

家事はいい加減なくせに猫の世話だけは人一倍なもので、

しかしそれがかえって芦屋の家族らには評判がよく、

「これほどに良い嫁は江戸中を探してもおらんだろう」

と父子ともども満足げであった。

思うには―

家事も大事ではあるに違いないが、何よりも

一家の和楽ほど有難い事は無い。

金一千両積まれても人の性やらはそうそう変えられぬ。

芦屋家は江戸でも名の知れた豪商であったが、

確かに長靴を履いた猫のおかげで幸豊かな家庭を持つ事が

かなったのであるから、それもよしといえば

そういえるのかも知れぬ。

かくして芦屋家はまた新たに猫好きの女房を加えて

ひねもすの猫遊びはいっそう拍車もかかるのであった。

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