第8話 蟲
天気のいい日だった。
侍女から庭の花が見頃だと教えてもらい、シイラと花を眺めていた。
周囲の空気は花の香りを運んでいて、いるだけで幸せな気持ちにさせる。
「綺麗ですわ」
「ええ。このバラいい香りね」
「こちらの花はなんて言う花でしょうか」
「そうね、見たことないけど随分と大きくて見事ね」
「ですが、香りはあまりない花ですね」
色とりどりの花に囲まれて、久しぶりに心が華やいだ。すっと抜ける風も心地いい。緑の香りを含んでいて、心が浄化されていく様だった。
だがその直後。邪悪な空気をその背に感じた。
「わおぉぉぉぉーーーーーん」
狼の遠吠え。
そしてそれとほぼ時を同じくして「にゃごーーーーーん」という猫の鳴き声が庭に響き渡る。
「何の音ですの?」
シイラが不安げにあたりを見渡す。
空気が一変する。狼と猫の鳴き声が何度も繰り返し響き、俄かに使用人たちの慌ただしくなる。
女たちは屋敷の方へ、男たちは納屋や武器庫の方へ、皆仕事を放り出し一目散に走っていく。
「奥様っ!!」
若い使用人がかけてきた。あ、カロリーナについて教えてくれた彼だ。
「奥様、早く屋敷へっ」
「一体どうなっているの」
「警報です」
「警報?」
「ゴン太とカロリーナの警報です。蟲が屋敷に侵入しました」
息を呑む。
蟲って、あの魔物が・・・?
この屋敷に?信じられない。
「急いでくださいっ!シイラさん奥様を屋敷へお連れしてください」
「はいっ。お嬢様急ぎましょう」
返事の代わりにこくこくと頷く。
蟲は蟲がりの家族を襲撃することがある、そう聞いていたけれどまさか本当に現れるなんて。
無我夢中で、必死に足を動かして走る。
が。
「きゃああああ」
突如聞こえた悲鳴。思わず私とシイラは体を強張らせる。咄嗟に周囲を見渡す。
先を走っていた使用人の若い娘が、恐怖のあまり地面にへたり込んでいた。
不気味な音に顔を上げると、見えたのは巨大な何かだった。
何よ、これ・・・・。
異形の存在が空に浮かんでいた。
大きさま熊よりもでかい。巨大な羽、複数ある手足、ギラギラと光る牙。
まさしく巨大な虫だ。
これが蟲なの?
大きすぎるーーーー。
目は異常に大きくスイカほどもある。別々に動く左右の目は一挙手一投足、周囲に反応していた。
8本ある手足は死神の鎌のような鋭さで私たちを威嚇する。
ブーンという羽音が不気味に腹に響き、恐怖を助長させた。
ワシャワシャワシャ。
口元を動かすたびに、何百羽という虫の羽音や鳴き声のように響き、あまりの気味の悪さに背筋が凍る。
逃げなきゃ。
想像を超えた姿に体が震えて、頭が真っ白になる。
頭でわかっているが、足が動かない。恐怖に支配された私は、その場に立ちすくんだ。
動かすどころか、立っているのがやっとだ。
初めて目にした野生の蟲。
これが蟲。人を襲い、食う蟲。
やがて蟲が私をとらえる。動かずに立ちすくむ私に狙いを定めたようだった。
ブッシュッ、ブシュッ。
攻撃するかのように蟲が口から何かを勢いよく吐いた。
間一髪。
避けられた。咄嗟に震える足を無理やり動かした。
蟲が吐いたのは透明な粘土のある液体だった。どろりとして、液体がかかった草木は根本から折れている。
つんと鼻につく匂い。
ブウウウン・・・・。
嫌な羽音がまた聞こえる。
が、蟲は攻撃の手を緩めない。
なおも私を狙ってい、もう一度攻撃体制に入る。
逃げなきゃ。
無理やり足を動かす。
が。
あっ。
足がもつれてその場に倒れ込んでしまった。
しまった。
羽音が近づき、空気が重く震える。
殺されるっ!!!!
脳裏に死がよぎる。怖い。助けて・・・。
「いや、助けてぇ!!」
暗闇。
絶望の闇。眼下に迫る死の恐怖。夜よりも深い闇。
その闇の先に見えた、光———。
ザンッ!!!!!
一筋の光がさす。
その光はライナス様の剣だった。
剣が太陽光に反射して光っていた。
風のように現れたライナス様は素早く剣を抜くと、私に迫っていた巨大な蟲の首を切り落としたのだ。
一撃だった。
走馬灯をみる隙を与えぬほど、まさに一瞬の出来事だった。
助かった。
安堵し、そう思ったとき。
「よけろ!!」
ライナス様が叫ぶ。
「この蟲の体液は毒だ!!」
切り落とされた首から夥しい薄黄色の体液が周囲に飛び散る。
よけなきゃ。頭ではわかっているがそのおびただしい体液はや雨の様に降り注ぎ、避けきれない。
今度こそダメかもしれない。
ヒュンッ!!!
一陣の風が吹き抜けた。
風?
どこからともなく、強い風が吹いてきて蟲の体液を飛ばす。
ブンッブンッブンッ!!!!!
背後から吹く強風。
草花が風に飛ばされ、砂埃が周囲に舞い上がる。
突如巻き起こった竜巻みたいな強風・・・・。
一体どうなっているの?
振り返るとシイラがエプロンを外し、それを片手で振り回し、風を起こしていた。
それも嵐の様な強風を。
ブンブンブン!!
シイラは強風を起こし、降り掛かろうとした蟲の体液を飛ばしていた。
「す、すげえ風だな」
だがその風は人間が起こしたとは思えぬ程に強く、流石のライナス様も剣を土に立てて、飛ばされないようにしがみついていた。
やがてその剛腕で見事蟲の体液を全て吹き飛ばしてくれた。シイラは腕を回すのを止める。風が止んだ。
庭を見渡すとそれはまるで嵐のあと。
「あんたすげーな」
遠くで使用人がシイラを見てつぶやく。
「奥様、大丈夫でした。私蟲を初めて見ましたの。怖かったあ。あぁまだ足が震えておりますわ」
体をくねらせながら私の元へと駆けつけてくれた。
とても先ほど強風を起こした本人とは思えない。
「ありがとうシイラ助かったわ」
そして何よりも、ライナス様。
「ライナス様、ありがとうございました。助かりました」
「あれはショウグンバエだ。おそらく先日俺たちが退治した群れの生き残りだろう。全部狩りつくしたつもりだったがな。仲間を殺された復讐に来たんだろう」
「復讐に?蟲が・・・ですか?」
「ああ、蟲はしつこく執念深い。蟲狩りについた体液やフェロモン、ごく微小の自身の毛の匂いなどを頼りにここまで来たのだろう。中には蟲狩りの最中ひっそりと息を潜めて、帰還する兵士の後をつけ、ねぐらを確認して仲間を引き連れてくるなんてこともある。俺はそんな蟲を返り討ちにするのが好きなんだ。仇討ちにきた蟲は必ず狩る」
ハーハハハッーーーー。
ライナス様は仰け反りながら笑うが、私の顔は恐怖で引き攣っていただろう。
仲間が襲撃されている最中、岩場に身を潜め、やがて引き上げる兵団の後をこっそりとつける蟲。そしてその家を見つけて復讐の炎をたぎらす。
そんな蟲の醜悪さを教えられて、心臓がヒリヒリと痛む。
怖い。恐ろしい。蟲の執念深さに眩暈を感じた。
が、必死に堪えて足に力を入れる。
こんなところで失神している場合じゃないわ。
あの時の苦労に比べればこんな事、なんでもないわ———。
そう、なんでもない。
視線を感じると、ライナス様が私を見ていた。
何か意味ありげな顔をしていたが、すぐに首を切り落とされた蟲の方を向いた。
「興醒めだな」
「はい?」
「連日の深夜の出迎えで少しは骨のある女かと思ってはいたが、所詮はお嬢様だな。ま、死にたくなければ俺がくるまで己の力で生き延びろ。せいぜい無駄な命乞いでも必死にしてな」
いつも通りこちらを見ることもなく、背を向けて屋敷の方へ向かう。
近くにいた使用人に後始末の指示を出していた。
その足が不意に止まりくるりと振り返る。
が、その視線は私ではなく隣にいるシイラに向けられていた。
「いい面構えだ。できる。尊敬、いやリスペクトだ」
シイラは「光栄でございます」と微笑んでいる。
尊敬とリスペクトって、同じ意味じゃない。言い換えただけでしょ。
ゴロン。
足元に今しがた切り落としされた蟲の首が転がっていた。
ショウグンバエか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます