勝物語

俺が物心ついた頃には、家にはもう父親はいなかった。

写真なんかも残っていなかったから、父親の顔も名前も知らない。

病気で亡くなったのか、はたまた蒸発したのかすら聞かされていなかったけど、たぶん死んだわけではないということだけは子供ながらわかっていた。

母が父親の話をしたがらなかったから、俺もしなかった。

うちは母さんだけ。

それが当たり前だと思っていた。

父親が俺に残したものは、年季の入ったジッポライターだけだった。

幼い頃はずっと引き出しに仕舞われていて、俺が見ることはほとんどなかった。


母は真面目な人だった。

女手一つで俺を懸命に育ててくれた。

仕事で忙しくても、俺には愛情をたっぷり注いでくれたし、不満を持ったことはなかった。

ただ、働き過ぎだったんだろう。

中学から自宅に帰って来た日、母が家の中で倒れていた。

急いで救急車を呼んだけど、間に合わなかった。

過労だった。

長い事仕事を掛け持ちしていたから、ここで無理がたたったのだろう。

何とか俺を高校まで卒業させるつもりだったらしい。

そんなの俺は望んでなかったのに、母はどこまでも子供思いの母親だった。

俺が中学を卒業するまでは、親戚もいなかったので施設に預けられた。

そして、15歳の時、住み込みで働ける場所を探し、新宿の割烹屋の下働きになった。


最初は雑用ばかりだった。

衣食住には困らなかったが、給料なんてほとんどなくて、休みだってない。

ただ、生きるのに必死な日々が続いた。

俺のすぐ上の先輩たちはすごく厳しい人で、何かあればよく俺にあたって来た。

物を投げてくることも始終で、無力な俺はただ耐えるしかなかった。

唯一救いだったのは、俺の手先が器用だったことだ。

最初の2年間は食材にも触らせてもらえなかったが、次第に仕事の幅は広がった。

それはきっと料理長や副料理長が俺の事をそこそこ認めてくれていたからだ。

野菜の皮むきや食器の用意など、それらしいことも任されてきた。

3年経つ頃には、俺の後輩も入ってきて、下積みから先付をさせてもらえるようになった。

その頃の賄い担当は俺でそれなりに評価はもらっていたと思う。

昔蹴散らしてきた先輩も人数的に半分になっていて、次第に八つ当たりすることはなくなっていた。

そして、やっと焼き物を担当し始めた頃、副料理長の独立が決まった。

つまり、のれん分けである。

今度は銀座に店を構えるらしい。

銀座はセレブの集まる場所。

生半端な実力では一瞬で店を閉じることになる、過酷な戦場だ。

それでも店を出そうとする副料理長の基さんはかなりの実力者だった。

料理の腕前だけ言えば、既に料理長を凌駕している。

そんな彼の店に俺は誘われた。

最初はためらったが、料理長も認めてくれたのだ。

基さんの力になってやれと言われ、俺も快く受け入れた。

しかし、最初の1年は戦争のような毎日だった。

以前の店の常連が何度か店に来てくれたが、新参者が店を出すのは本当に骨が折れた。

最初はろくに従業員も雇えず、前の店から来た5人で店を何とか切り盛りした。

時には品出しの仕事なんかもして、気が付けばそこで5年は経っていた。

既に殆どの仕事をこなせるようになっていて、店では3番手ぐらいにはなり、下には多くの部下がいた。

それを教育するのも俺の仕事だ。

すぐにへこたれて辞める奴も多くて、本当に困る。

俺の時は辞めたくても辞めたら生きていくところがなくて必死だったのに、こんなに選り好みが出来る彼らが羨ましかった。


その頃、俺は基本である茶碗蒸しを極めようと毎晩のように練習していた。

料理の基盤の出汁の取り方から研究して、料理長の考案した料理に合う、茶碗蒸しに仕上げたかった。

そんな時、裏口から何か大きなものがぶつかった音がした。

俺は慌てて裏口のドアを開け、確かめる。

そこには一人の女が座り込んでいた。

服装からしてホステスだろうか。

身体は傷だらけになっていた。


「おい、大丈夫か!?」


俺はその女に声をかけた。

しかし、女は唸るだけで答えない。

もしかしたら、大怪我をしたのかと思い、俺は救急車を呼ぼうとしたが、その女に足首を掴まれて身動きできなくなっていた。


「めし……」


彼女は何か呟いていたが、最初は何を言っているかわからなかった。


「何だ?」


俺が聞き返すと顔を上げてはっきりと言った。


「腹が減った。飯を食わせろ!」


とんでもないことを言い出す奴だと思ったが、その顔はどこかで見覚えがあった。

髪が乱れて、体中に擦り傷を作っているが、それは紛れもなく銀座の宝石と呼ばれた銀座のナンバーワンホステスだった。

名前は確か『とおる』とか言った気がする。

そんな場所に踏み込んだことすらない俺が知っている有名人だ。

こんな場所にいるとは思うまい。

俺は慌てて、自分が作っていた試作品の茶碗蒸しを彼女にやった。

彼女は美味しそうにバクバクと食べる。

人気ホステスとは思えない行儀の悪さだ。

しかし、みんなが言うようにどこか日本人離れした美しさだった。

俺もここまで綺麗な女性を見るのは初めてだ。

割烹屋をやっていると時々有名人や芸能界の美人は何人か来る。

しかし、彼女たちとも違う、独特の雰囲気を持った美しさだった。

俺は彼女が飯を食べている間に救急箱を持って、傷の手当てをしようと戻って来た。

裏口を再び開けると、もうそこには彼女はいなかった。

茶碗蒸しの器を3つ残して、どこかに消えていた。

彼女のような人間がなぜあんな怪我をしてこんな場所で倒れていたのかはわからないが、もう二度と会うことはないだろうと思いながら、食器を持って部屋に戻った。



会わないと思っていたのだ。

しかし、数日後には同じように傷だらけで裏口に立っていた。

そして、俺の顔を見るなり、また食べに来たと笑顔で言ってくるのだ。


「お前、あの銀座の高級クラブのナンバーワンホステス、『とおる』だよな。こんな場所で油売っていてもいいのかよ」


俺は彼女が飯を食っている間に、怪我の手当てをしてやった。

そもそも体資本のホステスが擦り傷を付けてくるなんて致命的だ。


「何がナンバーワンホステスだ。そう言って私を見せもんにしてるだけだよ。本当は実績なんてろくにねぇ。私がまともに男に接客なんて出来ると思うか? 大して役に立たないから、顔役にして希少価値高めて、それ見たさに何度も通わすんだよ。私は毎日すかした顔して歩くだけだ」


飾り物の花魁状態か。

まあ、彼女を見たらそれも信じられる気がする。

確かに見た目は美しいが、作法に品を感じさせない。

それでも彼女は銀座一とも謳われたクラブのママの娘だ。

評判にならない方がおかしい。

そして、彼女がこんな場所で俺の飯を食っていることもおかしい。


「じゃあ、その傷なんだよ。飯だって、お前が頼めばいくらでもうまいもの食わしてくれるだろう?」

「傷はちょっとしたいざこざがあってな、単なる喧嘩だ」


喧嘩だって聞いた時、唖然とした。

ホステスは普通、自ら喧嘩をしたりしない。


「それに下心持ったおやじどもの飯なんてまずくて食えっかよ。それを出しに何言ってくるかもわからないしな。私はああいう男どもが大っ嫌いなんだよ」


本当に彼女はホステスに向いていないと思った。

確かにこれでは金は稼げそうにない。


「お前の飯は美味しい。いままで食べた中で一番美味しかった」

「そんなのお前ぐらいのホステスならいくらでも食ってるだろう? 銀座には高級料理屋がいくらでもあるんだ」


俺は少し恥ずかしくなってそっぽを向いた。

本当はすごく嬉しかったのに素直になれなかったのだ。


「お前の飯には他の店にはない温かさを感じるんだよ。私の知らない、家庭の味っつぅか、母さんの味つぅか、そんな温かさ。それが心地よくてさ、また食べたくなるんだよな」


彼女はご馳走さんといって器を床に置いて、また立ち去って行った。

それからも同じ時間に何度か現れた。

怪我はしていたり、していなかったりだったが、嬉しそうに笑って飯をくれとねだってくる。

これではまるで野良猫状態だ。

それでも俺は嫌じゃなくて、いつもこっそり透さんに飯を食わしていた。


そんな日々が続いたある日、裏口を開けると透さんが大怪我をして倒れていた。

俺は必死で彼女の名前を呼んで、今度こそは救急車を呼ぼうとしたが止められた。

自分の知り合いの闇医者の所に連れてってほしいというから、俺は透さんを抱えてその診療所まで向かった。

透さんは左腕を一本、あばら骨を2本折られていたらしい。

喧嘩と言ってもやり過ぎだ。

彼女が誰と戦っていたのかは知らないが、これ以上怪我をして欲しくなかった。

俺は診療所の医者に任せて、店に帰った。

それから彼女は当分の間、店には来なかったが俺はそれで良かった。

彼女が恐ろしい目にあうたびにここにきているなら、もう喧嘩なんてしてほしくなかったからだ。



それから数か月後、彼女は久々に店に現れた。

相変わらず骨折は治っていなかったけれど、服装もいつもとは違って、手には大きなキャリーバックを持っていた。

彼女は俺の顔を見ると優しく笑った。


「勝、私に一生お前の飯を食わしてくれないか?」


それはプロポーズだと思った。

本来なら男が女にいうセリフなんだろうけど、そんなのどうでも良かった。

彼女は俺に救いを求めている。

そう思ったとき、どうしようもない気持ちになった。

もう、大切な人を失いたくない。

苦しんでいるところを見て見ぬふりしたくないとそう思った。

もう、そこからは衝動でしかなかった。

俺は彼女と一緒に自分の家に戻って荷物をまとめた。

夜逃げ同然で、まるで駆け落ちのように俺たちは逃げた。

そして、彼女が用意してくれた寝床は古ぼけた居酒屋だった。

一度閉店した店らしいが、そこの地主が格安で透さんに貸すという話をつけていたらしい。

だてに銀座のホステスをしていたわけではないのだなと感心する。

彼女は店の前に荷物を置いて、嬉しそうに片腕を上げた。


「今日からここが我が家だ! 私と勝の店だ!」


透はここで居酒屋を経営したいと言い出したのだ。

その辺のことは俺も全く勉強していなかったし、急に店が手に入ったからと言って出来るわけでもない。

俺は急いで手続きや許可書を取りに行って、何とか店を開くところまで行った。

その間までは透さんも適当にアルバイトなんかをしてくれて、食いつないでいた状況だ。

店が軌道に乗るまで随分時間がかかったし、まともに暮らせるようになったのはずっと先だった。

だから、彼女に結婚式どころか指輪もウェディングドレスも着せてやることができなかった。

申し訳なく思っていた俺に透さんは笑顔で答えてくれた。


「そんなもの勝と一緒にいられるならいらないよ。それに、もう、勝は私に大事なものをくれただろう?」


彼女はそう言って、自分のお腹を摩った。

その時初めて、お腹に赤ん坊が、馨がいることを知った。

透さんは愛おしそうにお腹を摩りながら、答えた。


「勝、ありがとな。私に本物の家族をくれて。私にこんなに大切な宝物をくれて」


そう言って透さんは俺の前で初めて泣いた。

それはうれし涙で、でもそんな姿すら俺は見たことがなかった。

ああ、彼女について来て良かったんだと確信した。

俺も同じだ。

失った家族をもう一度取り戻させてくれた。


「こちらこそ。ありがとう、透さん。ずっとこの子と家族3人で生きていこう」


俺はそう言って、彼女の摩る手に自分の手を添えた。

透さんの手のひらから伝わる馨の存在。

馨は俺たち家族の宝物だった。

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