成瀬夫婦物語

当然、お付き合い0日で結婚したいなんて、杏子の母親は許さなかった。

逆に一臣の両親、及び兄弟はあっさり承諾した。


「え? 本当にいいの?」


一臣は両親に聞き返す。

普通に考えれば反対されると思っていた。


「なんで?」


逆に母親に至っては聞き返してくる始末だ。


「いや、僕たちまだ付き合うって決めてすぐだし、その前に結婚決まっちゃったし、普通そういう時は親って反対しない?」

「なにそれ、ウケる!」


母親は一臣を指して笑った。

まるで女子高生のような反応だ。

杏子は既に2人の前に座っているのが退屈になったのか、妹の美玖と一臣の昔のアルバムを見ながら話を聞いていた。


「別にいいんじゃない? 結婚したら死ぬってわけじゃないし、やり直せないわけでもないし、それになりより私たちは一臣がいいと思ったこと、反対したことないよ」


母親はそう言って笑った。

父親も何も言わなかったが、母親に同意のようだった。

確かに思い出してみても、両親が自分の行動に否定したことはない。

理由を尋ねたことはあっても、反対をしたことは一度もないのだ。

一臣がそれでいいならいいよというのが両親のいつもの意見だ。

だから、一臣はこうしてまっすぐ育ったんだと思う。


「でも、向こうの両親は反対してるんだろう? かず兄はどうすんの?」


そう聞いてきたのは、弟の勘太だった。

勘太は既に高校を卒業して、大学に行くのを辞めて就職している。

この日の為にわざわざ休めるなんて、かなり自由な職場である。


「まあ、そうなんだけど、両親を説得するより杏子さんを言い聞かす方が大変だから、時間をかけて説得するしかないよね」


一臣は呆れた表情で話す。

そんな兄を見て、勘太はため息をついた。


「かず兄さぁ、いっつも思うけど、人に頼まれごとすると断れないタイプじゃん? 今回はさぁ、かず兄も納得しての決断なの?」


その質問に家族全員が一臣を見る。

確かに、結婚すると言い出したのは杏子だし、一臣の気持ちは聞かれていない。

高校の頃から杏子のファンではあったが、結婚となれば別物である。

一臣は一気に顔が赤くなり、モジモジしながら答えた。


「いや、なんていうか、自分でもよくわからないけど、杏子さんはその、高校の頃の初恋というか、ファンというか、特別な存在だったから、急にこんなこと言われてびっくりしたけど、嫌じゃなかったというか……」


それを聞いた家族は全員黙って、一臣を見つめた後、一斉に同じ言葉を漏らす。


「キモっ!」


家族一致で同じことを思うだなんて、一臣は悲しすぎた。


「なら、いいんじゃない? 私は杏子さん好きよ。なにより、こんな美人さんとお兄ちゃんが結婚したら、子供とか可愛くなりそう」


今度は美玖が嬉しそうに答えた。

一臣は自分たちの子供の事なんて考えていなかったので、硬直してしまう。

自分が杏子さんと子供を作るだなんて考えるだけで恥ずかしい。


「でも、一臣に似たら終わりじゃない?」


母親は笑いながら言った。

母親の言葉はいつも容赦がない。


「そんなことないよ。かず兄、今はこんな感じだけど、元はそんなに悪くないんだよ。まあ、うちの家族の中では下の方だけど」


妹美玖も容赦なかった。

ついでに最下位は父親で、その上が一臣らしい。

父親ともに一臣もそれなりにショックを受けていた。

そんな親子の会話に杏子が珍しく割り込んできた。


「私、子供産む気ないわよ?」


その言葉に家族全員唖然とする。


「だって、私、子供嫌いだもん」


杏子ははっきりと言った。

杏子は一人っ子だ。

そもそも年下と関わること自体、少なかったのだ。


「いやいや、それは勿体ないわよ。私も子供クソガキのことは嫌いだったけど、産んだらメッチャ可愛いから。自分の子供だけは特別なのよ。だから、ほら、3人も産んじゃった」


母親は杏子にそう言って笑った。

一臣の母親は杏子の母親と違って、とても陽気な人だ。

杏子の母親は杏子を見る時いつも心配そうな顔しかしない。

けど、一臣の母親はまったく不安など感じておらず、笑っている。

それが少し羨ましかった。


「まあ、一臣の時は不可抗力っていうか、デキ婚だったしねぇ」

「母さん!?」


母親の容赦のない言葉に一臣は反応する。

すると初めて杏子は笑った。

怒った顔ばかりしていた杏子が笑顔を見せたのだ。


「ならナイスです!」


杏子が母親に親指を突き出すと、母親も自信満々に笑った。


「でしょ!」


全て偶然の連鎖なのかもしれないけど、うまくピースが重なって運命となっていく。

確かに杏子とのこの縁談は思い付きなのかもしれないけど、それも悪いことではない気がした。



杏子の両親を何とか一臣が説得して、2人はめでたく結婚した。

一臣が優秀な職員ということもあり、杏子の両親も納得するしかなかったのだろう。

軽く関わる限り人は良さそうだし、あの杏子をもらってくれる男だ。

両親もむしろ感謝しなければならないのかもしれないと思った。

一臣と結婚してから、杏子は音楽の世界から完全に離れていた。

専業主婦となるべく、家事に勤しんだが杏子の母親が言うように3日で断念した。

まず、洗濯機の使い方がわからず、洗剤の分量もちゃんと計っていない。

一臣が帰宅すると、洗濯機の中に水が張った状態で止まっていた。

しかも、洗濯物はネットにも入れず、色分けもせず、ただただぶち込んでいた。

掃除機も雑なのか端の方に大量に埃が溜まっていたり、掃除機のダストボックスがパンパンの状態で放置してあったりした。

料理を作ろうとしたのだろう。

焦げた鍋がシンクに並び、調味料が散乱していた。

杏子は本当に家事に向いていない。

それ以前のような気もするが。


「私、専業主婦辞める!」


杏子はソファーの上で不貞腐れながら言った。

一臣はなんて言っていいかわからない。

杏子が専業主婦辞めたら何をするっていうのだろうか……。


「知り合いにバーの経営者を知っている人がいるの。その人の伝手で演奏の仕事をしようと思うんだけど」


杏子なりに考えているようだった。

一臣はわかったと言い、承諾した。

本当なら杏子に夜の仕事なんてさせたくはなかったが、彼女にはやはりピアノしかないのだ。

それは杏子にもよくわかっていた。

それから、半年後、仕事先でも散々迷惑をかけたが、杏子の妊娠が発覚して仕事を辞めた。

杏子のつわりはひどく、妊娠中がひどく辛かったのか、彼女はずっともう2度と子供は作らないと宣言した。

それは産まれる直前まではお経のように唱えていた言葉だが、子供が産まれると態度が一変した。

生まれたばかりの子供が寝かされるベビールームの中で杏子の息子は一際可愛かった。

最初のうちは他の事同じように赤ざるのようだったが、次第にその容姿の違いがはっきりすると目を見張るほどの整っていることが伺えた。

それが杏子にとってかなりの優越感になった。

見る人皆、息子蓮の事を褒め、羨ましがってくれる。

それを見ていると杏子は出産のときの苦しみなどすっかり忘れ、自分が子供嫌いの事もすっかり忘れていた。

しかし、そんなある日、同じ年頃のママたちと話しているときに言われた一言が杏子の胸を貫いた。


「蓮君は本当に可愛いわよね。けど、男の子はすぐ成長して、男らしくなっちゃうから、やっぱり女の子の方がずっと可愛らしいままでいいわよね」


そのママさんに悪気があったのかはわからない。

その言葉を聞いた瞬間、杏子の心に火が付いた。

そして、一臣が帰宅するのと同時に次は女の子を作ると息巻いて一臣を寝室まで引きずり込んだ。

そして、すっかり忘れていた妊娠中の苦しみに藻掻きながら、2人目の子供を出産する。

次は見事に女の子だった。

その女の子、葵も蓮に負けないほど可愛らしい子でやはり病院で散々自慢した。

当然、蓮と葵の誕生は双方の両親も喜んでいたし、家族の自慢だった。

しかし、不満があるとしたら一つ。

蓮はとても優秀な息子だったが、彼は天才というより努力家の秀才。

一臣によく似た性格をしていた。

心優しく育ち、親の言うことはしっかり聞き、杏子の苦手な家事も手伝ってくれる理想的な息子だ。

しかし、杏子のような音楽の才能はそれほどなかった。

逆に葵にはその素質があったのだが、葵自身が音楽に興味を示さなかった。

つまり、杏子の遺伝子を受け継いでも、杏子の才能を受け継いだ子供は生まれなかったのだ。

ならば、よその子でもいい。

才能のある子を育てたい。

そう思い、杏子は一軒家を買い、そこにピアノ用の部屋を作り、ピアノ教室を作った。

これが杏子のピアノの先生になった経緯である。



その後、才能のある子を育て、何人か音大まで行かせたが、中でも群を抜いて才能のある少女を見つけた。

彼女は高校2年生の春野はるのるちあ。

杏子と同じように絶対音感を持つ、特別な子だった。

しかし、彼女も杏子同様に人間関係に苦労していた。

気が付けば虐めにもあっていて、本人はすごく苦しんでいるようだった。

杏子にもわかるのだ。

人とは同じように出来ない自分が。

人が求めるような人との接し方や態度が出来ない。

うまくコミュニケーションが取れない。

ちょっとしたことでイライラしてしまう。

落ち込んでしまう。

わかっているから杏子はこの子をどうにかしてあげたかったのだ。

るちあも杏子には随分慕っていたし、教師として尊敬もしていた。

しかし、彼女の本音を明かすことは出来なかった。

そして、彼女は自宅で自殺した。

それを知った瞬間、杏子は自分が殺されたような気持になった。

るちあは大事な生徒だった。

それ以上にどこか自分の分身であったような感覚もあった。

その娘が死んだのだ。

彼女のショックは隠しきれないでいた。

そのうち、仕事にも力が入らなくなり、その悲しみを打ち消すように酒を飲んだ。

酒を飲み、溺れていく自分を見る子供たちの姿が悲しそうで、辛そうで、彼女は余計それをお酒で誤魔化そうとした。

そして、一番信頼していた一臣の裏切りを知った日、彼女の心は完全に崩れた。

彼女は何もかもから逃げるように家にいるのも嫌になって、家を飛び出し、ホストクラブに入り浸るようになった。



杏子が酒におぼれて、教室も辞めて、寝室で引きこもるようになって、一臣は何とかしようとしていたが何もできないことを知った。

だから、いつの日か仕事の忙しさで誤魔化して、家族から逃げる日々が続いていた。

きっと蓮や葵が怒っているだろう。

こんな父親に幻滅しているだろうと思いながらも、家に帰れない自分がいた。

そんな時、優しく声をかけてくれたのは、同じ職場にいた美香だった。

彼女は家に帰りづらいなら私の家にくればいいと誘った。

しかし、誘った理由は優しさや寂しさからではない。

丁度いい、パシリが出来たと思ったのだ。

一臣は毎日お預け状態で美香と生活していた。

一臣にとってはその生活は日常の苦しみを忘れられる唯一の事だったのだ。

自宅で杏子が泣いている。

蓮や葵が寂しがっている。

わかっていてもなかなか帰れなかった。

そして、あのネットカフェでの蓮との再会でやっと一臣は家に帰る決心がついた。

杏子も以前より元気になり、相変わらず酒ばかり飲んでいたが引きこもるようなことはなくなっていた。


当然、久しぶりに家に帰った日、杏子に5発殴られ、葵に蹴りを2回入れられ、2人に散々罵倒された。

悲しかったけど、嬉しかった。

それだけ自分を必要としてくれたことを実感できたから。

そんな彼を最後まで気遣ってくれたのが息子の蓮だった。

蓮は自分の子とは思えないぐらい、優しく優秀な子供に育ったと思えた。


散々罵倒されたその日、寝室に行くと杏子が待っていた。

また何を言われるかとビクビク、しながらどこかでぞくぞくしていたが、杏子は一臣に思い切り抱き着いてきた。

あの強気の杏子には珍しい行為で驚いていたが、彼女が泣いていることはすぐに理解できた。

そんな彼女を一臣は優しく抱きしめる。


「私にはあなたしかいないってわかっているくせに、逃げるんじゃないわよ。私を受け止められるのは世界でもあなただけなのよ」

「そうだね。本当にごめん……」


そう言って杏子を強く抱きしめた。

2人はどんなにすれ違っても離れなれない関係なのだ。

それをどこか、蓮や葵も理解しているようだった。

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