透物語

私は両親の愛情を知らない。

母親とは一緒に暮らしていたけど、ろくに相手してもらったことがないから。

私の世話を焼いてくれたのは、クラブのホステスのみんなだった。

その中には子供がいるスタッフもいて、赤ん坊の世話の仕方やミルクの飲まし方までみんなに教えてくれたらしい。

彼女からはお古の服もいくつかもらった。

他のホステスの女の子からプレゼントされることもあった。

母親からの愛は受けなかったが、その代わりクラブの皆に愛情深く育てられたのは覚えている。

中学校の頃には気が付いていたのだ。

自分の父親が政治界の大物で、母親は愛人だった。

お金と権力欲しさに私を出産したけど、父親はあっさり母親を見捨てた。

だから母親は何度も私の顔を見て

「あんたなんて産まなきゃよかった。大失敗だよ」

と嘆いていたのを覚えている。

母親にとって私は必要のない人間だったのだとよく知っていた。

それでも生きてこられたのは、周りの人がいい人ばかりだったからだ。

いい点を取って帰れば褒めてくれるし、運動会も学芸会も店の誰かが見に来てくれた。

保護者代わりになる人はたくさんいたのだ。

話し相手もたくさんいたし、不自由なんて何もしなかった。

学校から帰れば、お店に入る。

姉さんたちが店の準備をしている間に宿題をする。

そして、暇があったらたくさんおしゃべりした。

母親はずっといい顔はしなかったけど、自分で面倒を見る気はないのだ。

仕事の邪魔にならない程度に好きなようにさせていた。


中学を卒業すると私を店で働かすようになった。

最初はボーイのような仕事から始めた。

店の手伝いは慣れていたし、苦ではなかったが、時々思うことがある。

高校、行ってみたかったなって。

姉さんたちが多少、母親を説得してくれたみたいだけど、私に使わせる金はないとはっきり言ったらしい。

想像はついていたけれど、母親にとってどこまでも私は邪魔者で、こうして働いて金でも稼がなければ、存在価値すら与えてくれないのだと知った。

そもそも、父親を脅す道具だ。

相手の方が何枚も上手で、スキャンダルにすらできなかったから、私は単なる母親のお荷物になった。

そんな私を母親が愛せるとは思えない。

だからって、母親を恨むつもりはなかったし、父親を憎んでも意味のないことだとわかっていた。

それでも胸の真ん中がぽっかり空いたような寂しさを感じることはあった。


16歳になると、ドレスを着せられ、店に出させられることが増えた。

まだ、酒も飲めないから、大したことは出来ないけど、ひとまずは黙って座っとけと言われた。

姉さんたちに化粧やヘアメイクを手伝ってもらって、呼ばれれば店に出る。

言われた通り男性の隣に座って、話を聞く。

その間にお酒の準備や相手のしてほしいことを先回りして動く。

それが私にとって苦痛なのだ。

得意じゃない。

人の気持ちを察するとか。

面白くもない話に聞いてるふりするとか。

なくなったお酒を絶えず気にかけて、なくなれば入れなおす。

声をかける。

煙草が欲しそうになったら、ライターをかざす。

とにかくお客が気分を良くするような対応をしろというのだ。

殿様気分でソファーにふんぞり返る客。

そんな客どもにどう敬意なんて向ければいいのかわからない。

私はずっとむすっとした顔でとにかく座っておくのが精いっぱいだった。

最初は私の顔を見て、殆どの客が喜ぶが、接客を受けると不満な声を上げる客も少なくない。

これは本当にホステスかと母親を叱り付けた。

その度に私は仕事終わり、母親に呼び出されひどく怒られた。


「産んでやったんだから、ちょっとぐらい役に立ちなさいよ!」


母親の𠮟りつける時の口癖だ。

私はホステスになるために生まれてきたわけじゃない。

品のない男たちを喜ばせるために生きて来たわけじゃない。

そう思いながら生きていくことが本当に辛かった。




二十歳が過ぎたころ、店に私を訪ねて父親がやって来た。

父親は私を見るなり満足そうな顔を見せた。


「さすがあいつの娘だな。どのホステスよりも綺麗だ」


それが実の娘に最初にかける言葉かと思った。

今すぐ殴ってやりたい気分だ。

しかし、それをぐっと抑えながら、父親を眺めていた。


「透。私のところに来ないか? ここはお前には合ってないだろう。お前ほどの美しさがあれば、男からの評価も高い。しかし、接客が出来なければ商売にはならん。だから、お前は私の下について人との接し方を学べばいい。私のところにはそのぐらいの余裕がある。そして、いずれは私の後を継いで政治家になれ」


この男は何を言っているのかと思った。

母親や私を見捨てて、成人したら自分の仕事の手伝いをしろなんて虫が良すぎる。

母親も直ぐに気が付いたのか、私の前に立って阻止をした。


「あなたは透を捨てたはずよ。そんなあなたが今更この子をどうこうできると思っているの? 跡継ぎなら、正妻の息子どもにやらせなさいよ」


すると、父親はふっと鼻で笑った。


「あれはだめだ。母親の血しか受け継いでない、馬鹿ばかりだ。あんなに世話も金もかけてやったのにガラクタにしかならんかった。だから、私は透にかけているんだよ。あいつらより、ずっと力強い目を持っている。それにこいつにはカリスマ性もある。政治家の素質があるんだよ。こんなクラブのホステスよりもな」


私はぐっと歯を食いしばって、今にも父親を殴りつけようとした。

母親も父親も子供の事なんて自分たちの仕事の道具にぐらいしか思っていない。

それをそっと後ろでボーイのかっちゃんがとめてくれた。

私はかっちゃんの方へ振り向く。


「ここで暴力をふるっても何も解決しない。冷静になって、透」


その言葉で私の腕から力が抜けた。

かっちゃんは私の親友だ。

いつだって私を思って言ってくれる。

わかっていたから、私はそこから飛び出すことしかできなかった。




その日からだと思う。

私が荒れるようになったのは。

私には友達が多いから、ストーカーにあってるとか、元カレに困ってると言われれば駆けつけて懲らしめてやっていた。

接客もまともに客の話を聞かず、ただ酒を飲み漁った。

たまに足をテーブルに乗せ、瓶から直接飲んでやったこともある。

男とかけて、テキーラで飲み比べ勝負もした。

毎度、私の圧勝だったけど。

酒が強いのは親譲りらしい。

そんな高級クラブに似つかわしくない行動に母親は痺れを切らし、もう客の前には出さないようにした。

客寄せパンダ。

それが私だ。

クラブの宣伝ポスターにしたり、わざと金遣いの荒い客の前に出して、匂わしたり、私目当てにくる客を集めた。

いつの間にかその希少価値は高まり、眺めるだけでも運がいいと言われるようになった。

昔のように接客する必要はなくなったけど、退屈で仕方がなかった。

だから、私は休み時間に喧嘩をした。

最初は粋がった若者相手だった。

そのうち、ヤバそうな裏の社会の人間に代わっていく。

辞めたかったが辞められなかった。

喧嘩以外に自分のストレス発散方法がわからなかったからだ。

そして、喧嘩でボロボロになって逃げて来た日、私は料理店が並ぶ路地裏に入った。

そこは狭くて暗い場所で、ゴミ箱なんかが並んでいる。

そこから美味しそうな出汁の匂いがした。

おそらく隣は日本料理屋か何かなのだろう。

それを匂っているとお腹がすいてきて、今日、昼から何も食べてないのを思い出した。

そして、その場で力尽き、後ろに倒れるように座り込んだ。

そのタイミングで店の裏口から、一人の男が現れた。

顔を上げるとそこの料理人の若い男だった。

おそらく、私よりも年下だ。

彼は私を見るなり驚いて救急車を呼ぶと言い出したので、私は慌てて男の足首を掴む。

今は、救急車じゃない。

飯が欲しいのだ。


「めし……」

「何だ?」


男はもう一度聞き返す。


「腹が減った。飯を食わせろ!」


私がそう叫ぶと唖然としていたが、ちょっと待ってろと言って、男は店の中に入っていった。

数分後、男は暖かい茶碗蒸しを持ってきてくれた。

美味しそうないい香りがした。

ふたを開けると温かい湯気が立ち上り、匙がすっと入る。

出汁のたっぷりしみこませた卵を喉に流し込む。

のど越しのいい、心地のいい味だった。

これなら何杯でも食べられる。

そう思うと私はすぐに食べ終え、お代わりを所望していた。

3杯ぐらい食べていると店の中から男を呼ぶ声が聞こえる。

男は私にごめんと一言詫びを入れて、ついでに救急箱持ってくると部屋に戻った。

私はこれ以上いては男の迷惑になると思い、その場から立ち去ることにした。



しかし、数日過ぎてもあの茶碗蒸しの味が忘れられない。

本当に美味しかった。

あれほど美味しい料理は食べたことがない。

かっちゃんが作ってくれるナポリタンも嫌いじゃないけど、日が経つほどにあの味が恋しくなっていった。

ある日の喧嘩帰りに、再びあの店に寄ってみた。

すると、あの時と同じように男が現れた。

この男が真面目で仕事熱心なのはよくわかる。

うちの店の客にはいないような男だった。


「よぉ、またお前の飯を食いに来た」


私はそう笑って答える。

男は呆れていたけど、仕方がないとまた試作品の料理を食わせてくれた。

どの料理も美味しい。

心の温まる味がした。

もし、母親の料理というものがあるならこんな味だろうかと想像した。

手の込んだ愛情のこもった料理なんてあまり食べたことがない。

かっちゃんの料理も大好きだけど、こいつの料理は特別だった。

男は私の事を知っていてくれた。

銀座では有名だから仕方ない。

怪我の事か、いろんなことを心配してくれるお人好しだ。

名前を結城勝というらしい。

私は一目でこいつを気に入っていた。

そして、その日以降も何度もここに通った。

勝の料理が食べたかったからだけじゃない。

勝に会いたかったのもあるんだ。



そして、あの日、私は仕出かすことになる。

喧嘩相手を完全に誤ってしまった。

相手は暴力団の男で、仲間を何人か引き連れていた。

女一人相手に何人もの男なんて卑怯だ。

逃げ出すことも出来たけど、何もしないで立ち去るのは不服だった。

だから、途中まで痛めつけて逃げるつもりが、結局何発かの蹴りを食らって、最後には棒で殴りつけられ、骨が折れたのを実感した。

逃げ込むようにいつもの路地に向かう。

いつものように勝が現れてくれた。

勝はすぐに救急車を呼ぼうとしたが私は必死で阻止する。

普通の病院には行きたくない。

暴力事件にもしたくない。

だから、よく知る闇医者の場所を案内した。

勝は私を担いで病院まで連れて行ってくれた。

彼は必死だった。

彼の背中のぬくもりを感じながら、私にはこの男が必要なのだと実感した。

そして、病院のベッドの上で決意したのだ。



病院を抜け出すと、すぐに知り合いに電話した。

昔、飲み仲間の1人が放置しっぱなしの居酒屋があると聞いたことがあった。

そこを安値で貸してほしいと交渉したのだ。

都内からも距離がある。

あの場所なら、母親も無理には追いかけてこないだろうと思った。

そして、家に帰ると荷物をまとめて部屋を出た。

もともと自分のものなんてほとんど持っていない。

キャリーバック一つあれば十分だった。

そして、いつもよりも少し早い時間にあの路地に立つ。

勝は私にすぐ気が付き、飛び出してきてくれた。

私のいつもとは違う服装や様子に驚いているのだろう。


「お前、まだ怪我治ってねぇんだろう?」


勝は心配そうに私に話しかける。

勝だけだ。

そんな純粋な顔で私を見つめてくれるのは。

だから、私は言わないといけないと思ったのだ。

どんな結末になろうとも。


「勝、私に一生お前の飯を食わしてくれないか?」


一種のプロポーズだった。

私のような人間がいきなり男にプロポーズして受け入れられるなんて思ってない。

関りはあっても付き合ったわけでもない。

愛を確かめ合ったわけでもない。

フラれてもいいと思った。

それでも勝には私の本心を伝えておきたかったのだ。


「……わかった」


勝は一言で受け入れてくれた。

それがどういう意味なのかも勝は気が付いている。

駆け落ち同然の行為で、勝の今までの努力を棒にふるう行為だ。

こんな私の為に人生を棒にふるうことなんてないのに。

そう思いながらも、勝の引く手を振りほどけなかった。



それからは2人で一緒に居酒屋経営を始めた。

勝にはおんぶにだっこ状態であったが、それなりに楽しい日々が続いた。

好きな人と囲むご飯。

豪華でなくても十分なご馳走だ。

勝の幸せそうに料理を作る姿が好きだった。

家事が全然できなくて、慌てている私を呆れながらも丁寧に教えてくれる優しい勝が大好きだった。

私の目の前に勝が現れてくれたことが、私にとって最大の幸運だ。

そして、もう一つの幸せ。

それがこれだった。

勝は私に結婚式とか指輪とか、結婚した証のようなものが出来ないことを申し訳なく思ってくれていたみたいだけど、私にはそんなものはいらなかった。

それよりも一番欲しかったものを勝がくれた。

私が一番愛した人の子供だ。

これ以上のプレゼントが他にあるだろうか。

別に私は勝に無理に一緒に育ててほしいなんて思ってはいなかった。

私の周りには自分の子供に関心がない男なんてごまんといたから。

けど、勝は違った。

私のお腹を摩る手を上から重ねて、涙を流しながら言ってくれた。


「ありがとう、透さん。ずっとこの子と家族3人で生きていこう」


その言葉が私にとって死ぬほど嬉しかったことを勝は知らないだろう。

家族が一緒にいるのが当たり前なんて嘘だ。

けど、勝の方からそれを望んでくれた。

この時、私は自分が世界で一番幸せな女だと実感した。

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