葵物語
葵は自分の家族が自慢だった。
キャリア官僚の父、綺麗でピアノの上手な母、そして、誰もが羨む優秀な兄。
そんな家族と過ごしている時間がとても幸せだった。
小学校に入ったばかりの頃は、葵にも友達がたくさんいた。
成績も優秀で、運動神経も良く、教師たちからも評価が高かった。
泣き虫ではあったから、何かにつけて兄の後ろに引っ付いて歩いていたが、家族がそばにいれば何も怖い物なんてないと思っていた。
この幸せがずっと続くと、幼い葵はそう信じていた。
それが一転したのは小学校の4年生の時。
クラスメイトの1人が虐められるようになった。
理由は両親が一般人だから。
そんな理由で虐められるなんておかしいと思っていたが、学校内でも既に格差社会が出来上がっていた。
それは自分たちの両親が社会的地位の高さで判断された。
クラストップの生徒は、祖父を内閣官房長官で、父親が農林水産副大臣の娘だった。
彼女には教師すらも逆らえず、その周りにいる生徒も政治関係の仕事をしている親の子が多かった。
財務省の国税庁に務める官僚の娘であった葵はさほど立場は悪くはなかったが、そのクラストップの生徒に服従する姿勢を見せなかったことで差別の対象とされ始めていた。
虐められていった子たちは次々に転校していき、その子たちと仲良くした子たちも立場がだんだん悪くなってきた。
我慢が出来なくなった葵は、小学校6年生の時にそのクラストップの女子に一度だけ歯向かったことがあった。
あんたのやっていることはおかしいと叫んだのだ。
すると翌日から葵に関わる生徒はいなくなり、虐められるようになったのである。
それでも葵は両親に学校を辞めたいとは言わなかった。
言わなかったのではなく、正確には言えなかったのだ。
その頃にはもう、家庭の中がぐちゃぐちゃになっていたからだ。
幼い頃は幸せであることが当たり前だった。
何不自由なく、恵まれて育ってきた。
だから、こんな仕打ちが自分に待っているなんて想像もできなかったのだ。
小学校5年生の頃、母親がピアノ教室を辞めて家でお酒ばかり飲むようになった。
何かと気に入らないことがあると、夫である一臣に当たり散らしていたが、そのうちそれすらもせずに部屋に引きこもるようになった。
父は仕事で忙しかったので、家の事は2つ上の兄、蓮がやっていた。
蓮は優秀な子供だったので、小学校に入ってからは父の料理を手伝ったり、家のお手伝いのほとんどができていた。
高学年に入ると忙しい父に代わって、家全般の家事をこなし、中学校に入ったころには完全に葵の親代わりだったのだ。
それぐらい両親は葵に関りを持とうとしなかった。
葵自身も両親に無暗に関わろうとはしない。
ただ、荒んでいく家庭を憮然と見ているだけだった。
そのうち、葵の心を閉ざすようになり、泣くことも笑うこともなくなっていた。
葵が中学上がる前には、母親が引きこもりを辞め、ホストクラブに通うようになった。
父親はそんな母親を見かねたのか、殆ど帰宅することはなく、他の女の家に入り浸っているようだった。
葵を支えていたのは兄の蓮だけだった。
そんな蓮にも学校で虐められていることは話せないでいた。
中学に上がっても虐めはなくならなかった。
葵の友達の半数は学校を変え、半数は無視するようになっていた。
他の子が外車の運転手付きのお迎えが来る中、葵は一人で電車通学をしている。
毎日送り迎えできない家の子も、友達の家の人の車に乗せてもらうなど、基本徒歩で通学する子供は少ない。
青山女子学園の生徒は金持ちの子供が多いので、街中を歩くだけでも危険なのだ。
葵も気を付けてはいたが、両親に車で送迎してほしいなんて言えるはずもなく、友達もいないので乗せていってもらうこともできない。
ただ、電車1本で行けることもあり、早い時間に寄り道をしないでまっすぐ帰宅していた。
小学校3年生までは近所に同じ学校に通う友達がいて、一緒に通勤していたがその子も4年生になるころには転校していった。
それなので今の通学は1人なのである。
葵も転校をしてしまえば、気持ちが楽になったのかもしれない。
けれど、そんな話を両親が聞いてくれる状況でもないし、入学した時はあんなに喜んでくれた。
そんな家族の期待を裏切るような発言を葵は出来ないでいたのだ。
そして、少しずつ彼女自身が荒れていった。
葵の事を両親の代わりに見てきた蓮も葵の心情を薄々勘付いてはいた。
しかし、正直どうしていいのかわからなかったのだ。
友達は学校にいないにしろ、全く同年代との交流がなかったわけでもないし、葵の口から学校に行きたくないや転校したいなど聞いたことがなかった。
彼女の意思を無視して、両親に相談するわけにはいかず、ましてや始終酔いつぶれている母親に話したところで理解はできなかっただろう。
そんな時に現れたのが、結城だった。
むしゃくしゃしていた葵が思い付きで、がらの悪そうな高校生に絡んだ時、最初に助けてくれたのは兄の蓮だった。
しかし、その時、葵には助けなど必要としていなかった。
こんなしょぼい奴らなんて自分でどうにかできると本気で思っていたのだ。
それなのに、兄はそんなやつらに頭を下げて、見逃してもらうように頼んでいた。
これでは学校で見てきた、クラストップに服従している生徒たちと変わりないと兄を軽蔑したのだ。
結局兄も強い奴には従うのだと。
しかし、男子生徒たちは許すことはなかった。
葵の代わりに兄の蓮に責任を取れと殴りかかったのだ。
そして、よろけて倒れた蓮に彼らは何度も蹴り上げていた。
それを見て、兄が情けないと思うと同時に、恐怖も感じ始めた。
兄が勝てない相手に自分が勝てるのだろうか。
兄が動けなくなったら、自分も同じようにされるのではないだろうか。
そう思うと体が竦んで、いつの間にか後ずさっていた。
無意識にこの場から逃げようとしていたのだ。
これでは兄以上に自分が最低な人間になってしまう。
そんな彼女の肩を叩いたのが結城だった。
頭にバンダナを巻いて、甚平の上にエプロンを巻いた奇妙な格好の女。
彼女は葵に一言かけて、兄を痛めつけていた男たちに喧嘩を吹っかけていた。
彼女もやられる。
そう思った瞬間、結城は軽々と男たちを伸していた。
最後には豪快なかかと落としで失神させている。
ヤバい女だと思うと同時に、目の前の女が自分の理想だと知る。
葵にもやっと光が見えてきたのだ。
荒んで何も期待できなかった生活に一筋の光として結城が見えていた。
葵はそんな結城のようになりたいと、あの事件からずっと彼女にくっついている。
彼女に倣って、部活の代わりに近所にある合気道の道場にも通うようになった。
目標が見えてくると葵の世界も一変する。
そして、どうしようもなかった母との問題も、父との問題も結城が解決してくれたのだ。
相変わらず飲んでばかりの母だったが、前よりも自分たちの事も見てくれるようになったし、ホストクラブに通うのもやめてくれた。
父がどうして帰ってくるようになったのかは知らないが、不倫相手とは縁を切り、家に帰ってくることが増えていた。
そして、葵の虐めの件も、家族にはばれてしまったが、そんな惨めだった自分を唯一叱ってくれたのも慰めてくれたのも結城だった。
その後、家族と相談し、葵の意思もあって中学までは転校しないと決めた。
そして、高校受験をして別の学校に通う意思も伝えた。
両親も納得していたし、兄も賛成してくれた。
また少しずつ、葵の生活は昔のように穏やかなものになっていく。
それもこれも結城のおかげなのだと葵は心から彼女に感謝し、尊敬していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます