一臣物語
「おはようございます!」
今日も一臣は朝のアルバイト、新聞配達に勤しんでいた。
朝の準備を始めようとする八百屋のおじさんが顔を上げる。
「よぉ、かずちゃん。今日も頑張るねぇ」
「ありがとうございます!」
一臣は八百屋のおじさんにそうお礼を言って、次の目的地に自転車を走らせた。
新聞配達の仕事は一臣の日課だ。
一臣の家は貧乏というほどではなかったが、裕福と言えるほどお金持ちでもない。
だから、大学費用ぐらいは自分で稼ぎたいと思っていた。
それに元々一臣は、朝は早起きをする方でじっとするのが得意ではないので、この仕事が性に合っていた。
新聞配達を終え、家に帰ると軽くシャワーを浴びて、制服に着替え、朝食を作る。
そのタイミングで妹の美玖と弟の勘太が起きてくるので、2人に朝食を食べさせ、最後に母親を起こしに行く。
「母さん、起きて。早く起きないとまた遅刻しちゃうよ」
そう言って一臣は母親の寝室の奥に入り、カーテンを開けた。
カーテンからは明るい日差しが室内に差し込み、母親は眩しそうにうめき声を上げていた。
「後、5分……」
「そんなこと言って、いつも起きてこないでしょ!」
布団に抱き着くようにしがみ付いている母の布団を取り上げて、それをベランダまで持って行き干す。
それでも母親はなかなか起き上がろうとしなかった。
自分の体を縮こませて震えている。
そこまでするなら起きればいいのにと一臣は呆れるばかりだ。
「兄さん、ご飯ついじゃうよ?」
中学生の弟、勘太がしゃもじとお茶碗を持って母親の寝室を覗き込んだ。
お願いと言って、今度は母親が寝ている敷布団もむりやりはがして、ベランダに干す。
母親は何もなくなって、仕方なく体を起こすと這いつくばるようにダイニングに向かった。
そのタイミングで夜勤の父親が帰ってくる。
「ただいま。つっかれたぁ」
父親はそう言って、玄関で長靴を脱いでいた。
一臣は寝室に投げてあった洗濯物を持って籠に詰めると、父親に顔を出す。
「お帰り、父さん」
それに続くように勘太や美玖も父親に声をかけていた。
美玖はまだ、小学生だ。
父親は嬉しそうに美玖の頭を撫でていた。
「おお、美味しそうな朝食だな」
父親はそのままテーブルについて、朝食を見つめる。
父親にとってまともな家庭料理は朝ごはんだけなのだ。
そして、朝の苦手な母親に代わり、朝食は一臣が作っている。
中学生になった勘太も手伝ってくれるようになったし、簡単な仕事なら美玖でもしてくれるようになった。
一臣の母親も家事全般、あまり得意ではない。
一臣は家族と一緒に朝食を食べると、すぐに出かける準備をして家を出た。
そして、愛用の自転車に乗り、高校まで通う。
一臣が朝早く学校に登校するのには理由があった。
この高校では部活に入るのが必須なのだが、家の事情で放課後の部活や試合の遠征などが出来ないので、部活は園芸部に入っている。
一臣も草花は好きで部活は好んでやっているが、なんせ部員が少ない。
時間がない分、朝早く登校して、花の水やりをする必要があった。
そして、その時に聞こえるピアノの音楽。
それが一臣にとってちょっとした癒しだった。
花の水やりを終えると急いで教室に戻り、朝の準備を始める。
一臣はクラスの学級委員なのだ。
朝、すぐに授業が始めることが出来るのを確認するのも学級委員の仕事だ。
一臣の学校は県内でもトップを争うほどの優秀な学校だったが、実は隣に音楽高校が隣接されている。
ほんの数十年前まではここは音楽学校だったらしく、今は生徒が十分に集まらないので普通校を隣接して運営している。
校舎は全く別で、一臣たちの校舎は新しく4階建てで、音楽科の校舎は少し古くて2階建てだった。
一臣は自分の席に座るといつも窓から隣の校舎、音楽科の方を見てしまう。
そこからはひっきりなしに音楽が聞こえてくるからだ。
それが高校生活のBGMのようになっていて一臣は好きだった。
特に好きなのは、昼休みの花の世話の時間。
一臣は花壇の様子を見ながら、隣接する校舎から聞こえてくるピアノの音楽をよく聞いていた。
花壇はちょうど、普通科の校舎の裏と音楽科の校舎の裏が重なるL字にあってここからは音楽科の音楽がよく聞こえるのだ。
中でもこの昼休み、花壇に一番近い、2階の部屋で練習する生徒はいつも同じようで、しかし演奏の仕方は気分によって変わるのか、いつ聞いても飽きることはなかった。
その度に教師の説教が入るのか、がみがみ怒られている声まで聞こえる。
そして、それに対抗する生徒の声も。
これは女子生徒の声だろうかと勝手に想像を膨らますほどだ。
「もう、やってらんない!!」
そう言って、一人の女子生徒は思い切り2階の窓を開けた。
そして、その窓枠に足をかけて、下を睨みつけた。
そこには一臣がいて、彼はすごく驚いた顔をしている。
後ろに立っていた教師が驚いた声を上げて必死に女子生徒を止めているようだったが、聞く耳を持っていないようだ。
まさかと思った瞬間、少女は2階から飛び降りた。
そこは草花が生い茂る場所で、2階からの距離もそうあったわけではないので、女子生徒はたいした怪我無く降りることができたが、一臣が丹誠込めて作った花壇はぐちゃぐちゃになっていた。
その顔に花壇の土を付けた女子生徒は尻もちをついたおしりを摩りながら、一臣の目線に気が付いて睨みつける。
文句でもあるのかという顔だ。
一臣もそれなりに言いたいことはあったが、それ以上にその女子生徒の顔があまりに美しさに声が出なかったのだ。
そのまま呆然としていると、女子生徒は逃げ出すように立ち去って行った。
それが一臣と杏子の最初の出会いであった。
一臣は学校内の噂話にはあまり興味がなかったので知らなかったのだが、杏子は普通科でも有名な生徒だったらしい。
最初は当然、見た目が美しく、演奏もうまいということで目立っていたようだが、少しばかり経つと違う意味で注目を浴びるようになった。
まずは、毎日のように指導員の教師と喧嘩をすることだ。
自分の方向性や見解が違うとその場で言い合いになるそうだ。
そして、学食では人気のメニューを他の生徒を押しのけてでも奪おうとする、強引な女子だ。
音楽以外の成績はどれも低く、進級も危ぶまれていた。
当然、校内でも郊外でも絡まれれば、その喧嘩を買い、すぐに足が出るタイプだったという。
今までよく退学しなかったのは、彼女に音楽の才があったからだろう。
一臣の方は杏子の存在を知ると、ずっと忘れられないでいたが、杏子の方は全く覚えていなかった。
だから、一臣の一方的な憧れであったのだが、その関係が急接近するのは高校時代ではなく、ずっと先の話になる。
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