恋物語 雨宮さんの場合
彼はきっと覚えていない。
あの入試の日、私が彼に話しかけたこと。
彼が教室に入ってきて、席に着いた時から私の視界に入っていた。
入試日にも関わらず落ち着いたその大人びた雰囲気と綺麗な横顔が印象的だった。
だから、なんとなく話しかけてしまったのだ。
1つ目の試験が終わった後、答え合わせをするわけでもなく、次の教科の参考書を読むわけでもなく、なぜか小説を読みだした彼に驚いた。
彼は困った顔で笑っていたけど、とても優しそうな人だった。
入学して、後で名前を知った。
女子たちが同じ学年にイケメンがいると騒いでいたからだ。
成瀬蓮。
私はその名前を忘れられなかった。
同じクラスでも、ほとんど関わることなんてないだろうと思っていた。
私だけが彼を認識して、遠目から彼の姿を見つめる。
彼に憧れている人はたくさんいたから、近付こうとか、仲良くしようとかも考えていなかった。
入学して最初の学力テスト。
私は3位を取ることが出来た。
1位は結城馨という知らない名前の生徒。
名前からして、男なのか女なのかすらわからない。
そして2位が福井康平だ。
彼は確か、入学式の時に新入生代表で挨拶した生徒だ。
と言うことは入試で一番だったはずなのに、早速学力テストで抜かされているなんて情けない気がした。
そして、成瀬蓮は8位に並んでいた。
顔も良くて成績もイイなんてルール違反だと思う。
でもいつか私の存在に気が付いてもらうためにも、彼より下には順位が付かないように努力しようと決めていた。
叶わないかもしれないけれど、高校最初のこの恋を私は大事にしたかった。
そんな私の前に現れたのが、変わった女子生徒だった。
入学早々、先輩から呼び止められ、締め上げられていた。
何をしたのかと思い覗いてみると、彼女の手には大量にお菓子の袋が抱えられていた。
なぜ、お菓子なのかはわからないが、彼女はそれを絶対に放そうとはしなかった。
頑なに抱えて、亀のように丸まっていた。
「お前、いい加減にしろよ。そのスナックで汚した手であたしのスカートを触っただろう!」
「そうだぞ! 油汚れの染みは落ちにくいんだぞ。どう責任取るつもりだよ!!」
凄いことで怒られていると思った。
しかも、どう考えても学校に大量のお菓子を持ってきて、それを食べながら歩いていた彼女が悪い。
弁解する余地はないのだけれど、助けた方がいいのか迷った。
そんな時、あの成瀬が現れたのだ。
「先輩、汚れた個所はどこですか?」
彼はそう言って、スカートが汚れたと訴えてきた先輩に声をかけてきた。
そんな質問をされるとは思わず、先輩も戸惑っていた。
そして、その個所を指さした。
「それでは先輩、失礼します!」
彼はそう言って、足に触れないようにそっとスカートの裾を持ち上げる。
先輩もついその場で悲鳴を上げてしまった。
まさかこんな公衆の面前で何をおっぱじめるのかと心配になったが、彼は上からまた別のハンカチで押さえて、スカートの下から濡れたハンカチのようなもので叩いた。
すると次第に濃くなっていた染みが薄くなり、上から押さえつけられていたハンカチに汚れが移っていった。
「これはあくまで応急処置なので家に帰ったらしっかり洗ってくださいね。40度程度のお湯に汚れた部分を浸して、食器用洗剤のような中性洗剤を少し垂らしてください。軽く揉み洗いをしたら、歯ブラシで汚れを掻き出すように擦ってください。この時あまり力を入れすぎない方が布地が傷みません。後はいつも通り洗濯してもらえれば問題ないと思います」
なぜだか、説明を受けていた先輩が顔を真っ赤にして彼を見ていた。
周りにいた先輩たちも感動して、胸をときめかせている。
それでは失礼しますと彼は礼儀正しく頭を下げて、先輩たちの前から立ち去った。
それを追いかけるように、お菓子を抱えた女子生徒が彼を追った。
私もついつられて2人を追ってしまった。
2人きりになった瞬間、女子生徒が彼の名前を呼んだ。
「成瀬君!」
彼はゆっくり振り向く。
「ありがとう……」
彼女がお礼を言うと成瀬はふっと優しく笑った。
「俺はやるべきことをやっただけだよ」
そう言って彼は立ち去ってしまった。
かっこよすぎる。
なんかやっていることは主婦のテクみたいな感じだったけど、こんなことを自然にやってしまう生徒がいるとは思わなかった。
きっと目の前の女子生徒はそんな彼に感化されて、感動しているところだろう。
また彼は罪深く、1人の少女を恋に落としてしまったのかもしれない。
彼女は彼を見送った後、手に持っていたスナックを1つ開けて、その場で食べ始めた。
そして、呟く。
「今度、油汚れがついた時は成瀬にやってもらおう……」
いやいやそこは違うでしょう……。
そう心で突っ込みながら彼女のことを後ろから眺めていると、彼女の方も私に気がついたらしく、近付いてくる。
私は何をされるのだろうかと、後退ってしまったが、彼女が手に持っていたスナック菓子の袋を私に突き付けて話しかけてきた。
「食べる?」
このタイミングでお菓子のお裾分け?
彼女の考えていることはわからないが、私もつい何となくそのお菓子を手に取ってしまった。
「あ、ありがとう……」
本当にこれを食べてもいいのだろうかと悩んだが、彼女は美味しそうにお菓子を食べながら言った。
「あたし、草津恵美。これであたしたち友達だよな?」
お菓子を分けただけで友達が成立するのかと疑問に思ったが、あまりにもこの草津と言う女子が嬉しそうな顔をするので、違うとは言いづらくなった。
私は手に持っていたお菓子を思い切って一口で頬張る。
なぜかこの日から、私と草津は気が付けばよく一緒にいる仲となってしまった。
うちの高校にはソフトボール部がない。
中学まではずっとソフトボールをやっていて県大会にも出ていたのに、高校になったらできなくなってしまった。
マネージャーをやる質でもないし、足にも自信があったので陸上部に入った。
実は陸上部の練習場所からテニスコートがよく見えた。
テニス部にはあの成瀬蓮がいる。
成瀬はテニスもうまくて、1年なのに既に団体戦のレギュラーになっていた。
文武両道とはこのことを言うのだろう。
私がぼんやりとテニスコートの方向を眺めていると、2年の先輩たちが私に近付いてきた。
余所見をしていたことがばれたのかと思い、一瞬怯んだが特に怒る気はなかったらしい。
にやにや笑いながら、近付いて来て私に肩を組んできた。
「雨宮ってさぁ、足長いよね。胸もあるし、全体的にスタイルいいよなぁ」
先輩は私の身体をなめ繰り回すように見て、羨ましそうに言った。
他の先輩も共感しているようだった。
「別にそんなことは……」
「謙遜するな、雨宮。うちの学校にはたまにいるんだよな。成績も良くて、スポーツも出来て、外見もいい奴。世の中って不平等だなぁって思う時あるもん」
自分が先輩たちにそんな風に見られていると初めて知った。
自分より成績のいい奴もいるし、当然、スポーツも自分より長けている奴もいる。
見た目だって学年で騒がれるほどでもなく、そういうのは成瀬みたいな奴が言われるんだと思った。
そろそろ走り込みするよと言われ、私は先輩たちに続いてトラックを走り始めた。
走るだけってなんだか退屈だなと思った。
中学の時も準備運動とか走り込みとかもやっていたけれど、基本がソフトだったからその後の練習もたくさんあった。
けれど陸上は殆ど走ってばかり。
走っているとなんだか、余計な事を考えてしまう。
今のところ短距離を選択しているから、長距離の部員よりは違うのかもしれないけれど、誰かの練習を見ている時間も長かった。
そして、それぞれの種目に分かれて、練習が始まった。
今日は割と調子がいい。
これならタイムが上げられるかもしれないと思った。
私は意識をしていつもよりも全力を出して走ってみようと思った。
それが間違いだったのだ。
スターティングブロックに足をかけて、ポーズを決めるとスタートの合図を待った。
「セット」の合図と共にクラウチングスタートをして走り出す。
いい走り出しだ。
やっぱり今日は調子がいいと思って思い切り踏み込んだ。
その時、足に何か違和感がした。
気にせずに走り切ろうとしたが、それは出来なかった。
足首が痛い。
熱を帯びているのを感じた。
私のスピードは徐々に落ちて、最後は一番後ろでゴールした。
「雨宮、真面目にやれ!!」
3年の先輩から怒られる。
私はすいませんと謝って、近くのフェンスに寄りかかって座った。
そして、右足を確認する。
やっぱり変な捻り方をしたようだ。
足首がじんじんと痛んだ。
靴を脱いで靴下をとってみると、足首は真っ赤に腫れあがっていた。
「捻挫だね。無理して動かさない方がいいよ」
そう声をかけてきたのはフェンスの向こう側にいた成瀬だった。
私はつい驚いて声を上げてしまった。
「ちょっと待っててね」
彼はそう言ってコートのベンチのある方向へ向かった。
いきなり話しかけられたので、私の胸は爆発するんじゃないかと思うぐらい大きな音を立てていた。
数分経つと、成瀬はテーピングと冷却スプレーを持って私の所まで来てくれた。
「捻挫をした時はRICE処置。知ってる?」
彼はそう言って、私の腫れあがった足首に冷却スプレーをかけた。
「まずはRest、安静ね。次にIce、冷却。本当は氷嚢なんかがいいんだけど、今はスプレーしかないから。後で保健室に行って借りて来て。そして、Compression、圧迫。足首周辺や血管を圧迫して、腫れるのを防ぐ。今はテーピングで処置するけど、これも保健室に行ったら先生にやってもらった方がいいよ。最後にElevation、挙上。出来るだけ足を心臓よりも高くして固定すること。15~20分ぐらいで大丈夫みたい。スポーツやってるとこういうことも多いから覚えていた方がいいよ。特に捻挫は癖になりやすいからね」
彼はそう言って私の身体を起こしてくれた。
そして、肩を自然に貸してくれる。
「とりあえず、保健室行こう」
彼は応急処置をしながらそう言った後、私の背中に手をまわし、支えてくれながら歩き始めた。
私の顔は真っ赤になって、恥ずかしすぎてどうにかなりそうだった。
成瀬は誰にでもこうして優しいのだ。
きっと好きになる人も私だけじゃないと思う。
それでも成瀬には私の名前を憶えていて欲しいと思ってしまう。
「その……、ありがとう、成瀬君……」
私は爆音を鳴らす心臓を必死で抑えながら言った。
すると彼は爽やかなあの微笑みで答えてくれた。
「どういたしまして。雨宮さんは頑張り屋さんだから、無理しすぎないようにね」
彼は私の事なんてクラスの中の女子の一人ぐらいにしか思っていないと思っていた。
けれど、彼は私が思っている以上に私を見ていてくれたのだ。
それが嬉しすぎて泣きそうになったこの瞬間を、私は一生忘れないと思う。
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