第34話 ルクス・リアスト

 月が昇っていく。

 セキヤとヴィルトはもう眠りについている。

 私とルクスは、二人で焚き火を前に座っていた。

 沸かした湯を二つのコップに注ぎ、片方をルクスに渡す。

 クレイストやミスキーが近いこの辺りは、夏でも涼しい。


「それで、話って?」


 コップを受け取ったルクスは膝に肘を置いて頬杖をついた。

 その見た目には似合っているが、やはりどこか不慣れな印象を感じる。彼の出自を思えば納得だ。


「特にこれというものはありませんが……そうですね、貴方がヴェノーチェカに受けた仕打ちの話でも」

「……ヴェノーチェカ本人の前で言えって?」


 ルクスは不可解そうに眉を顰めた。


「私は血こそ受け継いでいますが、関わってこなかったので。それに出回っていたヴェノーチェカの話はどれも良いものばかり。正直、何の参考にもならないんですよ」


 こういった発明をしただの、どういった貢献をしただの。ヴェノーチェカの名前が上がる文献は大体そういったものだ。

 大方、クレイスト王家……あるいはヴェノーチェカ家自身が好ましくない情報を握り潰していたのだろう。

 ルクスは一応納得したらしい。それ以上は言わず、コップに口をつけた。


「……元々、リアスト家は医療を志す家系だ。今までいくつも新たな薬や治療法を発明してきた。解明した病気も数知れずだ」


 ルクスは火を見つめながら、ゆっくりと語り始める。


「だが、次第にその名声は薄れていった。開発した新薬の殆どを、ヴェノーチェカ家が開発したとして世に出すようになった……まあ、俺がそれを知ったのは両親が亡くなった後だったが」

「なるほど。それで功績を奪った、と」


 ルクスは頷く。

 メルタで言われた言葉を思い出す。

 功績を奪って、全て焼き払ったと……そう彼は言っていた。


「ウチの技術は全部吸い取ったんだろうな。用済みだとばかりに、両親は家ごと焼かれた。開発していた新薬の資料も、今までのノウハウも全て燃え尽きたんだ」


 ルクスは目を伏せた。その緑の目に映った焚き火が揺らめいている。

 話を聞く限り、ヴェノーチェカがやったという証拠はなさそうだが……確かにやりそうなことでもある。


「俺と妹は偶然外に出ていたから無事だった」

「……その妹は?」

「とっくに死んだよ」


 固い声が返ってきた。

 つまり、彼だけが生き残りなのか。


「家が焼かれた後、俺達は二人で暮らしていた。ボロ屋だったけど、衣食住は確保して……細々と薬を売って、どうにか生きていけるって思ったんだ。でも、あの日全てが崩れ去った」


 冷たい風が吹く。

 揺れる金髪の向こうで、彼の顔が歪む。


「きっと、俺と妹が生き残っていることを嗅ぎつけたんだろう。突然家に押し入られて……ただただ無力だったよ。抗う術もなかった俺達は、簡単に制圧されて」


 歯を食いしばった彼は頭を振った。


「妹は尊厳を奪われて、そのまま殺された。縛られていた俺は……目の前で彼女の体が動かなくなるのを、ただ見ていることしかできなかったんだ」


 コップを持つルクスの手が強張る。

 震える息を吐き出した彼は、増悪がこもった眼差しで炎を見つめた。


「……俺から全部奪っていったんだ。名前は知らないが、間違いなくヴェノーチェカの誰かだ。あの色彩、忘れたことはない」

「どんな人でしたか」


 ルクスはハッと嘲るように笑った。

 私に視線が向けられる。その目は怒りを滲ませていた。


「躊躇いなく聞くんだな……まあいい。君と同じで、銀髪に赤い目の男だ。ああ、でも奴は水色の毛束が二つだったな」

「二つ?」

「右と左に一房ずつだ」


 一つ、顔が思い浮かんだ。

 いや、まさか。だが、もしそうだとしたら。

 頭を押さえる。彼はあの行為を愛だと言っていたが……その愛とやらを、彼の妹にも向けていたのだろうか。


「ヴェノーチェカは君と兄の二人しか残っていないと言っていたな」

「ええ、そうです。兄は今も生きていました」

「会ったのか?」

「……はい」


 そのおかげで悩みの種が一つ増やされた。

 それが、ここにきて更に悩ませてくれるとは。

 ますます訳が分からない。やはり彼は愛などではなく……ただ、己の欲を発散するためだけに行為に及んでいるのではないだろうか。

 まだそちらの方が理解できるというものだ。


「間違っていたらすまないが……その兄は」

「確信はありません。ありませんが……可能性はあります」

「そう、か。君の兄が……いや、まだ確定してはいない。言うのはよそう」


 ルクスは首を振って息を吐いた。

 今までの様子を見るに相当の憎しみを抱いているだろうに、かなり理性的だ。

 ……彼の妹は何年前に殺されたのだろうか。

 もしその遺体が残っているなら……そう考えて、それ以上の思考をやめた。

 ヴィルトの力は無償ではない。そう簡単に彼の力を使うべきではない。

 ただ……彼がもし、兄様の被害者だとしたら。


「妹は何年前に?」

「十年と少し。クレイストに埋葬しているんだ」

「そう、ですか」


 十年。埋葬。

 そうなればもう希望はないだろう。

 仮にヴィルトがこの話を聞いたとして、救いたいと願っても……無理な話だ。彼の力を使うには、骨だけでは足りない。


「ヴェノーチェカはほとんど滅びたらしいが、何があったのか知っているか?」

「私と兄以外は全員死んでいます。その理由は……」


 その理由……理由は、何だったか。

 思い出そうとすると、ズキリと頭が痛む。

 どうしてこんな重要なことを思い出せないのだろうか。

 ルクスが顔を覗き込んでくる。


「おい、大丈夫か?」

「……すみません。覚えていなくて」

「覚えていない? それはどういう……」


 ルクスは明らかに訝しんでいる。

 私だってそうなるだろう。都合がいいと思われても仕方がない。


「私が家を抜け出してから暫くの間、記憶が朧げなんです。そのせいで思い出せないことが多くて……」

「記憶喪失か? 無理に思い出すことはない。記憶を失うというのは一種の自己防衛機能だ。相応の何かがあったとも言える」


 ルクスは口元に手を当てて言う。

 相応の何か。

 あの時、私に何があったのだろうか。

 なぜ、あれほどの期間……記憶が曖昧なのか。

 思い出そうとすると頭が痛む。彼の言う通り、無理に思い出すべきものではないのかもしれない。だが……それでいいのだろうか?


「あくまでそういう傾向があるというだけだ。全てに当てはまるわけじゃない」


 ルクスは目を逸らし、コップの中身を飲み干した。


「まあ、どうしても思い出したいというなら一つずつ辿ってみたらどうだ。俺ばかり過去を話すというのも不平等じゃないか?」

「それは……そうかもしれませんね」


 思い出せる範囲で、無理をしない程度に。

 私はその全てを知りたいと思っている。

 結局、クレイストに着けばあの屋敷を訪ねるのだから。

 それまでに少しずつでも思い出せるなら、それでいい。


「……私は元々、ヴェノーチェカ本邸で監禁されていたんです」

「監禁? それはまた物騒だな」

「その間に唯一会えていたのが兄でした。私にとっては尊敬できる兄だったのですが……」


 セキヤと出会った、その後。私は兄様に部屋を連れ出された。

 どこかへと……冷たいどこかへと、連れて行かれて。それから。

 頭が痛む。


「冷たい……冷たい部屋に、連れて行かれたんです。そこで……たしか、そこで……そこでも兄は優しくて、でも」


 あれはいつだったか。

 ボロボロの服。怪我だらけの肌。冷たくて硬い床。

 その上で、私は。


「……最後に兄に会った日。彼は私を無理矢理犯したんです」


 呟いた声は、自分で思ったよりも平坦だった。

 隣で息を呑む気配がする。

 視界の中で揺らぐ火を、ただ見つめた。


「それから私が屋敷を逃げ出すまで、兄とは会っていません」

「そして最近になって再会した、と?」


 ルクスの問いかけに頷く。


「彼はその行為を愛だと言っていました。でも……貴方の話を聞いて、ますます分からなくなったんです」


 コップに口をつけ、口を潤す。


「もし貴方の妹に手をかけたのが私の兄だというなら……やはり、ただ欲の発散だったのだと言われた方が納得できるじゃないですか」


 ルクスの顔を見る。彼は焚き火を見つめ、何かを考えているようだった。


「……弟」


 険しい顔をした彼は、ぽつりと呟く。


「弟に似ていると、言われた。妹を殺したその男は……俺を見て、愛しの弟に少し似ていると」


 弟。

 ますます兄様である可能性が高まってしまった。

 しかし、ルクスの言葉が本当なら……本当に、彼は私を愛していたというのだろうか?

 思い出すだの関係なく頭が痛くなってきた。全くと言っていい程、彼の真意が分からない。


「嫌がる俺を見て、楽しそうだったよ。いつか弟にもその目で見られたいって……ゼロ君、これは最早可能性だとかの話じゃないだろう?」

「……そうかもしれませんね」


 確定したと言ってもいいのかもしれない。

 震える手を握りしめたルクスは、深くため息をついた。


「まさか揃って奴の犠牲者だなんて」

「とんだ偶然ですね」

「まったくだ」


 体を起こしたルクスはゆるく首を振る。


「ああ、もうこの話は終わりにしよう。最後に一つだけ聞いてもいいか?」

「ええ、どうぞ」

「兄の名前は?」


 ルクスの目がギラつく。それが焚き火のせいなのかは……考えるまでもないだろう。


「ソラン・ヴェノーチェカ。それが兄の名です」

「ありがとう。覚えておく」


 岩にコップを置いて立ち上がったルクスは、私を見下ろして言う。


「そろそろ俺は寝ることにするよ。おやすみ、ゼロ君」

「ええ、おやすみなさい」


 ……ゼロ君、か。

 彼からの信頼を得た……ということで、いいのだろうか?

 じっと焚き火を見つめる。

 痛む頭を押さえながら、自らの足跡を辿ってみた。

 空白だらけの道を繰り返し、何度も。

 夜が明けるまで延々と辿り続けた。


 結局、何の進展もなかったが。

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