第5話

 灰皿の吸い殻が減ったと思うや否や、伊東さんが出勤しなくなった。そういえば最近真っ赤な口紅がたっぷり付いたヴァージニアスリムメンソールの吸い殻を捨てた記憶がないし、ベランダに出てるのもほとんど湯田さんばっかりだ。

「伊東さん、辞めちゃうってホントですか?」

 あれほどこだわってて誰にも渡さなかったDMの仕事を引き継ぐように言われたのは、つい一昨日の事だ。

 湯田さんは右手に持った携帯電話のボタンをカチカチと恐ろしいスピードで打ちながら「うん」と素っ気なく返事した。

「あと私もね」

「えっ!」

 ついでのように爆弾発言を付け加える。

「えっ、え、あの」

「スポーツマガジンの通販ページと太陽住販のチラシも頼んだわ」

「いやいや、え、えマジで言ってます?」

 左手に持ったタバコをグイッと吸って、ふいーっと長く吐き出しながら灰皿に押し付ける。

「旦那くんが転勤するんだ」

「……そっすか」

 湯田さんはパチリと音を立てて携帯を折りたたんだ。それから少しの間一緒に街の景色を眺めていたら、事務所の電話が鳴ったので慌てて取りに戻る。

 正直、羨ましいと思ってなかった訳じゃない。いつか私だって、伊東さんや湯田さんみたいに重要な仕事を任されたいし、華やかな仕事もしてみたいと思いながらやってきた。でも、いざ任されるのにこんなタイミングで、しかもこんなやり方ってない。でもやらないと。きっと本当に等々力デザイン事務所が潰れてしまう。


「あのな、伊東ちゃんは子供が欲しいんだと」

 ベランダから煙の匂いをさせながら湯田さんが戻る。ああそうか、だから煙草も吸わないのか。腑落ちしたけど、そうかぁ、子供かぁ。

「仕事が一番のストレスなんだとよ。ひでぇな」

「は? あんな誇らしげに作ってたくせに?」

「マジ、それよ」

 音にしたら、うくくく、みたいな変な声を出しながらで湯田さんが身体を折った。思わず出た本音がウケてしまって、でも伊東さんには言わないでおいて欲しいなと思う。

「ハナコなら出来るよ」

「いや、これ出来ますかねぇ」

「心配なのはむしろ等々力さんの方かな」

 それからまた電話がかかってきて話が途切れて、プリンタが紙詰まりして頼りないアラート音が鳴る中、湯田さんがひらひらと手を振って帰ってしまう。

 水切りカゴには伏せられた湯田さんのマグカップが残されていたのでまた来るのかなと思ったけれど、打ち合わせ用のダイニングテーブルに置きっ放しにされたKENTのソフトパッケージに「バイビー、ハナコ!」って油性マジックで書かれてたので。これはもしかすると二度と会えないパターンかなと、拾ったそれをポケットに入れた。

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