第6話

 それから二ヶ月、私は無茶苦茶に仕事をした。朝も昼も夜もない。仕事してるか寝てるかだった。たぶん夢すら見ていない。

 これをどうにか乗り越えたらきっとまた事務所が続いてくれる、湯田さんや伊東さんや、きっともーちゃん先輩だって戻って来てくれる。そう思うしかなかった。


“イノセンスラブに毘沙門”

“ごめんしごとおわんない”


 目玉が飛び出てるマークがポロリンと送られて、それを横目で確認しながら指示書に向き直る。配置画像とポジフィルムの付け合わせは間違えると大変なことになるから慎重に。ラジオから時報が聴こえて新しい番組がスタートする。二十三時になりました今日も一日の疲れを癒すヒーリングプログラムをお届けします。リモコンを掴んだ腕を伸ばして電源を切る。

 一人きりの事務所はしいんと大きく耳鳴りが聴こえる。泣きたい。泣くな。泣いたらよく見えなくなる。お腹すいた。すいたなぁ。


 結局、終電を逃した私は銀座線の上を二駅歩くことにした。


“いる?”

“毘沙門?”

“カアルくん”

“いるよ。来るの?”

“おなかすいた”


 それだけ打つと携帯電話をポケットにしまう。いつの間にか街はクリスマス仕様の白っぽいイルミネーションに包まれている。知らなかった、今って年末なのか。どうりて。

「ハナコ寒くね? その格好」

 右折しようとしていた交差点で待っていたのはカアルくんだった。相変わらず小太りで丸いレンズのメガネ。たぶん着てると思ったけど、やっぱりダッフルコートだった。

「何そのNORTH FACE、お父さんじゃん」

「うるせ。行くぞ」

 いかにもなショルダーバッグを弄ったら背中を向けられて怯む。

「え、どこに?」

「飯だろ」

 この時間にご飯食べられるとこあんの? 口から出る白い息に目を奪われながら追いかける。そうか、冬か。


 カアルくんが足を止めたのはネカフェの前だった。ネカフェ、あんまり良いイメージ無いなぁと思ったのが顔に出たのか「任せろって」と一歩踏み出す。

「ここをただのネカフェと思うなよ?」

 得意げな顔に続いて入った店内はごちゃごちゃで、ビレッジバンガードに似ている。キョロキョロしていると受付を済ませたカアルくんが財布をしまいながら、ん、と顎で先を促した。肩越しに見えるのは、お盆、お皿、小鉢。湯気の立つお鍋には温かいスープが並々と入っている。カアルくんが棚からお皿を手に取り、私に差し出した。

「あるよ、鯖みそも」

「わぁあ、マジだ! ありがとうカアルくん!」

「よしよし、たーんと食え」

「食う!」


 それから私は、とても久しぶりに、ゆっくりと、温かいご飯をたくさん食べた。食べながら、長い話をした。

「私の家はね、商店街にある食堂だったの。鯖みその美味しい定食屋さん。だけど高校生の頃に母が駆け落ちしてね」

「ハ!?」

「お店の常連さんとだよ。驚いたよねー」

 姿を消した母の箪笥の中は、いつの間にか空っぽだった。それだけでもう、私も父も、母を追いかける理由を手放すことになった。そうして父と私で切り盛りを始めた食堂はそれなりに営業できていたのだけれど、やっぱり無理が生じることになる。そんな時に助けてくれたのが同じ商店街のお弁当屋さんの娘さんだった。

「で、子供が出来たから籍を入れるって話になって、私は家を出たってわけ」

「……反抗?」

「じゃなくて。逆だよ。私はもう十分育ったからさぁ。うちのお父さん良いお父さんだし、だったら生まれてくる子のお父さんは、お父さんにして貰いたかったの」

「なんかお父さんがゲシュタルト崩壊してきたな」

 カアルくんが頭を抱えるその横で、ソファ席を倒して横になった。ブースの中がほの暗くて眠くなってきたのだ。お腹もいっぱいだし、疲れたし、もう寝ちゃおう。

「おい、ここで寝てくの?」

「うーん、寝かせて~」

「おいって。……なぁ、ほんとに? ……襲っちゃうかもよ?」

「いいよ、カアルくんなら」

 ふぁっ! とひっくり返った声がして、それからゆっくり、ゆっくりと、カアルくんの体温が近くなったのが分かった。けれど記憶はそこまで。満たされたお腹が心地良くって、カアルくんの体温が温かくって。私はほとんど秒で眠ってしまったのだった。

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