第3話

 お水の初校をバイク便に乗せ、PDFをメールに添付して送信。教育出版社の問題集の細々したデータ修正と、ヘルパー募集の新聞広告を納品したら、限りなく終電に近かった。

 バイク便のあとに旦那さんと電話しながらドアをすり抜けてった伊東さんはあのまま帰ったみたいだし、打ち合わせのまま直帰と言っていた等々力さんはともかく、湯田さんはいつの間に帰ったんだろうか。何も気が付かなかった。

 のろのろと空調を切り、ラジオを切り、ベランダの灰皿の中の真っ赤な口紅がべっとり付いている吸い殻と流しのごみをまとめて捨てる。息を止めながら社長室の扉を開けて消臭スプレーをぶちまけ、急いで鞄をひっつかんで事務所の鍵を差し込む。とそのタイミングで携帯電話がブルルと震えた。見れば、スマイルマークの絵文字。

“なに?”

“イノセントラブ、毘沙門来てる”

“すぐ行く”

 施錠をきっちり確認したらエレベータを待っている間ももどかしく感じて、ダッシュで階段を駆け降りた。所謂クラブであるところのイノセントラブは、代官山よりも渋谷駅からのほうがアクセスが良いので、とりあえず走り出す。

 神出鬼没のDJこと毘沙門の出現情報を共有するネットの掲示板で「カアルくん」と連絡を取るようになった。「カアルくん」はハンドルネームで、フリーランスのライターをしていることと、経済学部を出ているという事くらいしか知らない。あとは好きな音楽のジャンルとか、酒が弱いとか、そんなところだ。

“毘沙門コークハイ飲んでる”

“それほんとにコークハイ? タールとかでは?”

“バカ!”

 ほとんど意味のないやり取りをしながら246の歩道橋を早足で降りる。酔っぱらいを横目に見ながらモヤイ像の隣をすり抜けて、発車ベルの鳴る銀座線に滑り込んだ。背後で扉が閉まってやっと人心地つく。同時に空腹が押し寄せてきた。

“お腹すいた”

 返信はない。もしかしたら毘沙門がブースに入ったのかも知れない。たったの二駅が永遠のように遠く感じる。毘沙門、どうか音を止めないで。少なくとも私が着くまでは回してて。祈るような気持ちで電車を飛び降り、改札を抜け、通いなれた階段を降りていく。ほんと、お腹すいた。いつから食べてないんだっけ。鯖みそ食べたいな。

 入口の黒服にこのためだけに取得した原付の免許証を見せたらお金を払う。ドアが開いて、一気に音の渦の中へと転がり込んだ。振動にも似た重低音。切り裂くように降ってくる高音。薄暗い空間を縦横無尽に走るレーザー光線。そこにいるのは妙な服装の人たち。変なタトゥーまみれの人たち。編み込みと剃り込みで丹念に作られたおかしな髪型の人たち。もはや着ない方が潔いのではという露出の激しい人たち。あとそこらに居そうなオタクっぽい人。それは私も含めてのこと。

「ハナコ、こっち」

「間に合った!」

 カウンターに体重を預けた姿勢の、イケてないポロシャツ姿の男が手を上げる。小太りで丸メガネ。くるくるの巻き毛は天パらしい。暗いうえにミラーボールが回りまくっててよくわからないけどたぶんこれピンク色のポロシャツ着てるじゃん。しかもハーフパンツ。

「休日のお父さんかよ!」

「ラコステだよ」

「父ちゃーん、腹へったよぉ」

 うるせ、と呟きかけたカアルくんの視線が不意にステージに向いたので、それを追って振り返ると、レコードを抱えた毘沙門がブースに入って行く所だった。数秒のち、わざとらしいスクラッチ音。途端、場内が奇声のような歓声のようなものに包まれる。波のように泡立つフロア。さざめくようなハンズアップ。

 光と音の中に夢中で駆け出していけば、頭の先から指先までが幸福感で満たされた。もう空腹なんてどうでもいい。締め切りも、未払いも、訴訟も、今日も明日もなんだっていい。身体を捩って音を食らう虫か何かのように踊る。斜め後ろでカアルくんが何か言ったような気がしたけれどよく聞こえなくて、でも絶対、言葉を発した当の本人だって聞こえないってことがわかってるはずだった。

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