第2話
事務所のドアが乱暴に開いて、小太りのおっさんが入ってきた。おっさん、つまりは社長の等々力さんは、「おはようございまーす」という伊東さんと湯田さんと私の挨拶に「ギョーカイジンみたいな挨拶すんなよ」と言いながらそそくさと社長室に姿を消す。
サラリーマンっぽくない異素材のネクタイとこれ見よがしなゼロハリバートンのアタッシュケースなんか下げてるあたり、業界人ぶってるのは自分じゃんと思うけれど、それよりも今日はもーちゃん先輩だ。閉ざされたばかりの「社長室」と書かれたプレートの貼り付いたドアをコンコンとやる。
「失礼しまーす」
マグカップに並々とブラックコーヒーを注いだのをデスクの端に置いた時に、モニタに開いたメール画面が見えて、イニシャルがついたフォルダがいくつかあるのが見えた。等々力さんはどこからどう見ても小太りのたぬきオヤジなのに、不思議と女が何人もいる。代官山のデザイン事務所の社長って肩書きはそんなに威力のあるもんかと思う。おまけに元モデルの奥さんまでいるんだから人生何が起きるやらわからないものだ。
「南国湧水さんのリーフレット、明日までって聞いたんですけど」
等々力さんは携帯電話の画面を覗きながら生返事をした。文字にすると「はーん」みたいな音で、明らかに興味がなさそうだ。
「望月先輩から引き継いだので私がやりますけど良いでしょうか」
「花村君が? あ、そう」
私の前任者は等々力さんの愛人を兼務していたらしく、彼氏との結婚が決まったから辞めることにしたと聞いている。
「ところで君、腹へってない?」
「締め切り、明日の朝らしくて」
「……あ、そう」
隙あらばそれっぽい関係に持ち込もうとしてくるあたり、たぶん、これが手癖ってやつなんだと思う。新卒で入ったデザイン事務所は三年目に入っても、思った以上に学ぶことが多い空間だった。
「ダセェの作んなよ」
社長室の扉が閉まる一瞬前に声が追いかけてくる。スピ系の会社ってだけで既にダセェんですよ、とはさすがに言えず、今度は私が生返事をする番だった。
どうやらもーちゃん先輩は等々力さんを相手に給与未払いの訴訟を起こすつもりらしい。契約社員の湯田さんは先月納品したパンフレットの制作代の支払いが来月になるって言われたとぼやいていた。同じく契約社員の伊東さんも百貨店のDM以外の仕事はもう受けないとか言っている。なぜなら等々力さんの金払いが悪いから。
私だって出張交通費未払いが続いてるんだけど、どうやら等々力さんは新しい女に入れ上げているらしくて、貢ぎに貢ぎまくっている。だって先月の出金伝票に、謎のMacbookと謎の出張ガソリン代と謎の取材宿泊費があったから。
たった一人の正社員こと私の給与は淡々と支払われ続けているけれど、それだっていつまで続くんだか。週一でやって来る経理担当の奥さんが「ハナコちゃんごめんね、これ先週の出張交通費ね」といって差し出してくれる封筒の中身は、果たして本当に会社のお金なのだか。奥さんのポケットマネーという可能性を疑っていることはちょっと誰にも相談できない。半年の手形ってやつがかなりヤバいとか、ちょっとどこに相談したら良いのか分からない。大丈夫かなこれ。大丈夫じゃあない、よなぁ。
現実からの逃避も兼ねて南の海の波打ち際の画像をアートボードに貼り付けたあと、そうだった、海洋深層水だって言ってるんだったと思い直してサンゴ礁のゆらぐ海底の写真に差し替える。
「飯、食ってくる」
のたのた歩く等々力さんの足音に「いってらっしゃーい」と返しながら、締め切りまでの時間をカウントした。
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