グラフィカル・ハナコ

野村ロマネス子

第1話

 もーちゃん先輩が高飛びした。


 と言ってもアレである。棒を抱えてとっとこ走ってぴよよーんって跳ぶアレじゃなくて、飛行機に乗って国外逃亡するアレでもなくって。

「旦那に怒られたらしいよ」

「それはうちも一緒だけどさぁ」

「これ、どうするよ?」

「そりゃアイツっしょ」

 レイヤーのオンオフを何度かクリックしていた右手の人差し指がわずかに跳ねた。モニタに向けた目を動かさなければ指名されずに済むとでも言うように、私は頑なにその話題に反応することを拒んだけれど、うひゃひゃという品のない笑い声の後に名前を呼ばれて観念する。

「ハーナコ!」

「……はい」

 振り向くと、テーブルの上のゲラをつまんだ伊東さんと、怠そうにマグカップを口につけたままの湯田さんがこっちを見ていた。マグの持ち手に添えられた爪。そこに塗られたネイルは今年の流行色だ。伊東さんの唇はめちゃくちゃビビッドな赤に染まっている。その赤が嬉しそうに吊り上がった。

「これ、今回からお前やれよ」

「……お水のですか」

「だよ。お水やれよ」

 お水、とは水商売のことではなくてウォーターサーバーなんかを扱う会社のことで。ハワイの近くの海洋深層水を汲み上げていて、パワースポットに近いとか、スピリチュアルで眉唾なアレの、パンフレットやDM、つまりはダイレクトメール、あとバナー広告とか細々したPOPなんかは、この等々力デザイン事務所の大事な大事なお仕事のひとつだ。

「あたしは百貨店のDMで忙しいからさぁ」

「これ初校あがってますか?」

 勝ち誇った表情の伊東さんの言葉に被せ気味に発言した。悪いけど今はそれ聞いてる余裕ないんだわ。伊東さんはムッとした顔で立ち上がるとヴァージニアスリムメンソールのパッケージを手に取った。

「データが無ければ無いでしょ」

 肩越しにそう言い放ってそのままベランダに出る。私はサーバを開いて共有フォルダに目を通す。「お水」フォルダに新しいデータはない。「もーちゃん」フォルダはいつの間にか空だ。カチカチとクリックしていた手を止めて「無いです」と呟けば、伊東さんと湯田さんのぎゃははははクソうけるわ! があっちとこっちで同時に響き渡った。嫌なサラウンド効果だった。


 頭を抱えてても仕方ないので今度はメールを漁って、もーちゃん先輩とお水の担当者のやり取りを追いかけていると私物の携帯電話の方にメールが届いて、それはもーちゃん先輩からだった。


“ハナコごめん、あと頼んだ!”

“お疲れ様です、これ締め切りいつですか”


 仕事ほっぽり出して高飛びした契約社員にお疲れ様ですも無いだろうけれど、ついつい習性で文字を打ち込んでしまう。


“明日の朝”


 マジか。時計を見る間もなくつけっぱなしのFMラジオからジングルが流れて「イッツファイブオクロック」と告げる。わーお。

 また携帯電話がチャリーンと鳴って、目をやると変な文字列が飛び込んできた。

“訴訟になると思う。証言ヨロです。”

「は?」

 変な声が出た。縋るように携帯電話のアドレス帳をスクロールして、もーちゃん先輩の番号にかけたものの先輩は電話に出ることもなくて、私は粛々とお水のリーフレット紙面を作ることに集中したのだった。

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