第2話 後藤雄一の執念
さて、あの『狂気のユーチューバー事件』があの結末を迎えてから約10日を過ぎた頃、東優子から、渋谷にある、隠れ家的な存在ながら食材の豪華さ新鮮さで食通の間では有名な、瀟洒なフレンチレストラン「Sレストラン」で会ってくれないか?と誘いを受けた。
この東優子には、ホッケーマスクの男の男、つまり本田秀一の見張りを頼んでおり、今まで常にメールやライン、時には電話でも連絡を取り合っていたので、いつしか単なる情報元から、ほのかな愛情へと気持ちが変わっていた事を、後藤雄一本人もいつのまにか自覚してきていたのである。
当の東優子は、綺麗に化粧をし清楚なスーツを着ている。何と、既にミスT大の準グランプリにもなっていたのだと言うのだ。
しかも、後藤雄一は東優子の隣に一人の男性がいる事に即気付いた。まさか、彼女の父親もここに同席しているのか?しかし、一体、何の理由で、東優子の父親まで、この席にいるのだろうか?
席に座ると、東優子はまず父親を簡単に紹介し、食事を勧め、またワインも頼んだ。後藤雄一は、今日は車で来て無いので酒も飲めるのである。
不思議な気分のまま、食事やワインを飲んでいると、東優子は、急に、
「あ、あ、あの、私をお嫁に貰って下さい」と、突然の逆プロポーズを受けたのである。
「えつ!」
「大丈夫です。既に父親の了解も取ってあります」そこまで東優子が言うと、東優子の父親と思われる二人も、深々と頭を下げた。
「ちょっと、待って下さい。東さんは、まだ未成年でしょう」
「だから、既に父親の了解もとってあり、今日、この席にも同席してもらっているのです」 ここで、東の父親は次のように頼んだのだ。
「後藤さんのお話は、娘からいつも聞いていおります。
ちなみに、私は、浅草で代々、乾物の卸問屋を経営している者です。ですので、高度な学問的な話は全く分かりません。
そもそも私は娘のT大進学は反対でしたが、娘がどうしてもT大へ行って心理学を勉強したい、臨床心理士とやらになりたいと言うので行かせたんですが、女性でT大卒となれば、嫁の貰い手があるかどうか、常に心配していたのです。
特に、この優子の弟が生まれた後、母親は急死してしまいました。その頃、まだ小さかった優子が、母親代わりによく弟の面倒をそれはそれは良くみてくれました。
父親としては、その恩に報いるためにも、誰かいい人がいれば、優子を早めにお嫁に貰ってもらい、幸せな家庭を築いてもらいたいと、常々、思っておりました。
そこに後藤さんが現れたのです。後藤さんは日本でも一流の出版社に勤務されていますし、また大学もH大卒で、T大もH大も共に国立の一流大学です。
二人はうまく行くと思います。どうか娘を貰ってもえないでしょうか?」
確かに、東優子とは一廻り以上も年は違うものの、自分も30歳半ばを過ぎており、仕事が忙しく、女性と知り合うチャンスが、有るようで無いのが実情である。
無論、自分は、雑誌記者をしているストレスから、たまに高級風俗店にも通っている。別に相手が美人だからといって、そう、気後れする事も全く無い。
また、自分の両親からは、早く結婚しろといつも言ってくるのだ。誰と結婚しようと一切文句は言わないと留守電に、毎日、伝言が毎回入っている程だ。
迷って返事をしかねていると、東優子の父親は、更に衝撃的な言葉を言った。
「後藤さん、何なら、今晩からでも後藤さんのマンションに娘を連れて行ってもらっても構いません。これも二人の運命だと私は思っています。式はその後で、後藤さんの都合の良い時で結構ですから」
「娘さんは、学生結婚になりますが、それでもいいんですか?」と、後藤雄一。
「それに関しては、一つだけ私からお願いがあります。私が、臨床心理士の資格を取るまでは、子供はできないようにして下さいね。でも、私、料理も目茶苦茶得意なんですよ。
あっと、安心して下さい履いてますよ。でも、もし今日、雄一さんのマンションへ連れて行って貰ったら直ぐに脱ぐかもしれないけど……と、東優子がトンデモ無い一発ギャグを交えて言った。
この天下のT大生が絶対に言う筈も無いような一発ギャグに、後藤雄一は笑い出すとととに、東優子の本気度を感じた。ついに後藤雄一も決心が付いた。
後藤雄一の住んでいるマンションは賃貸物件だったが、うまい具合に1LDKではなく2LDKだったし、ベッドもダブルでは無いがセミダブルだから、何とか二人で寝る事は不可能では無い。
「じゃ、今日から、俺と一緒に住んでみる?」
「よろしく、お願い致します」と、東優子はテーブルに両手の指をついた。
こうして、後藤雄一と東優子は、急遽、同棲生活を始める事になったのだ。
また、上司にもそれとなく伝えた。晩婚を心配してくれていた上司の編集長は、事の他、喜んでくれた。
「結婚式には、必ず呼んでくれよな。一世一大のスピーチをしてやるからな」と、編集長は言ってくれた。
だが、同棲を開始してから2週間目の事、学校からその日は遅く帰ってきた優子が、急に変な事を口走ったのだ。
「ねえねえ、雄一さん。今日学校で変な場面を見たの」
「それは、例の本田秀一がらみの話で?」
「そうよ、あの本田秀一が、窓の外を見て、甲高い奇声を上げてケラケラ笑っていたのよ。
でも、あれは、まともな人間の笑い方では決して無かった。正に、私が最初感じたサイコパスかパラノイアのような目付きで笑っていたわ。
……雄一さん、今は、『チワワのチーちゃん週間物語』の投稿動画は完全に終わっているけれど、もしかしたら、本田秀一は、その後本当に愛犬のチワワのチーちゃんを食べたのではないかしら?」
「うーん、それはまた物騒な話だが、確かにこの数週間、全く何の投稿動画も無いのは話が少し旨すぎるかもしれないなあ。不気味な気もする。
よし、明日、本田秀一のマンションに直接乗り込んで、チワワのチーちゃんの生存を確認してみるよ。あのマンションは、超高級マンションじゃ無いから、簡単に本田秀一の部屋にまで行ける筈だ」
今まで新婚気分に浸っていた彼に、再び、週刊誌記者の心に火が付いたのだ。
考えてみれば、あれほど世間を騒がせた『狂気のユーチューバー事件』がこのまま、簡単に幕を下ろすとは、とても思えなかったのである。
本田秀一のマンションの場所は知っている。何回か訪ね、マンションの管理人とも既に顔見知りとなっていた。
そのマンションを訪ねると、例の管理人が顔を出して簡単に挨拶してくれた。
「まだ、例のユーチューブの件を追っているのですか?」と、管理人が言う。
「ええ、あまりにあっけない終わり方なので、どうにも納得できないので、実際に本人に会いに来たのです。今日は、日曜日ですし、朝なので本田秀一君は外出していないと思いますが」
「多分、まだ部屋にいるんでしょう」
「ありがとうございます。直ぐに見に行ってみます」
後藤雄一は、エレベータで、本田秀一の住んでいる4階の一部屋を訪ねた。
ドアホンを押す。
「何ですか?」と素っ気ない返事だ。
「『週刊文芸四季』の記者の後藤雄一です」
「ああ、例のユーチューバーをボロクソに書いたあの週刊誌ですね。それが僕に何の用です?」
「あなたが、例のユーチューバー、ホッケーマスクの男だと言う事は、知っている人は知っているのですよ。ただ、あの可愛いチワワのチーちゃんがどうなったのか、我が社に問い合わせが殺到しているので、その後の様子を見に来たのですが……」
ここまで言うと、ドアが開いた。
整った顔付きではあるが、表情がまるで能面のような本田秀一が顔を出した。
「一体、何を確かめたいのです?」
「チワワのチーちゃん。その後、どうなっているのですか?食べたのではないのですか?」
「分かった。分かった。今から呼びますよ。チーちゃん、チーちゃん、こっちへおいで」と本田秀一が呼ぶと、あの可愛いチワワのチーちゃんが、トコトコ玄関まで出てきた。
まぎれも無い、本物のチワワのチーちゃんであった。しかも、綺麗にトリミングもして貰ってあり、大切に大切に扱われている事は間違いが無い。
「では、あの、例の心理学の論文はどうされるんですか?」
「卒論にしますよ。まあ、世界中の心理学者があっと言うような論文に仕立てるつもりです。で、その論文をひっさげて、アメリカのH大学大学院に進学予定です。これだけ聞かれればもう十分でしょう」
このような状況下で、本田修一が窓の外を見て何故ニタニタ笑っていた事など、質問できる筈が無い。それにそんな事を聞けば、同級生でもある妻の優子が疑われる。入籍はまだなので、東の姓は変わっていないから分からないでいるが、その内に式を挙げて籍を入れれば、東優子は後藤優子となって、自分との関係が疑われるのは目に見えている。
それは、逆に、妻の優子を危険にさらす事にもなるのだ。妻に言わせれば、本田秀一には、どこか常人とは違った面が感じられたからだ。
さて、これだけの情報を持って、自分のマンションに帰宅した。ついでに会社に寄って仕事もしてきたので、帰宅は午後6時過ぎとなった。
優子が、見た事もないような料理を作って待っていた。何でも、エスニック料理だと言うが、こんな情報を一体どこから入手するのだろう。
「雄一さん、で、どうだった?」
「それが、確かに本人に会って確かめて見たんだがね。あのチワワのチーちゃんは、元気で無事だったんだよ」
「じゃ、本当に食べて無かったのね」
「まあ、そういう事になるわなあ」
「でも、私には納得いかないわ。あんな奇妙な甲高い笑い声や奇妙な目付きを、私は未だかって見た事が無いの。じゃ、あの奇妙な声や顔は、一体何に対して、どういう理由で笑っていたのかしら……」
「うーん、僕は心理学者じゃ無いから、返答ができないが」
「私は、何か嫌な事が今後、起きるような気がしてならないのよ」
「まあまあ、そんなに気にするなって。それより、この豪華なエスニック料理を食べようよ」と、それだけ言って、後藤雄一は料理に手を付けた。
ただ、一人、優子だけは、どこか釈然としない表情だった。
次の日の朝のニュースを、朝食を作りながら見ていた優子は、雄一を叩き起こした。
「雄一さん、起きて!とんでも無い事件が起きたのよ」
まだ、時間は朝の6時丁度である。一体、どんなニュースなのか?テレビでは、極、ありふれた殺人事件のニュースを流していただけだった。
現役の私立のK大生が、同居中の女性:19歳を殺害したと言う、いつもの聞き慣れたニュースだ。
「一体、このニュースの何処が、とんでも無い事件なんだ?」
「ほら、このK大生の犯人の名はあの井坂豊なのよ。そして殺された女性は、高校生時代の本田秀一の同級生で元恋人だった女の子:小林奈々なのよ。
この井坂豊って、高校3年生の時に、その時まで本田秀一の恋人だった1年年下の小林奈々を寝取ったと噂されているし、当時からユチューバーでも結構有名だった人なのよ。これって偶然にしちゃ、あまりに出来過ぎた話じゃない?
それに、この前の本田秀一の気味悪い笑いと言い……」
「ユーチューバー繋がりなのかな?」と、雄一が言った時、テレビのニュースでは、殺人犯人とされる井坂豊が、
「俺の意思じゃない。誰かが、俺に命令したのだ!」と、精神障害を伺わせるような言葉を吐いているため、警察のほうでは、今後、慎重に取り調べるとアナウンサーが話していた。
「このニュースを聞いていたら、井坂豊は、まるで統合失調症にでも罹患しているような言動だなあ……」
「雄一さん、私の高校の同級生にK大生がいるから、もしかしたら大学進学後の井坂豊の様子が分かるかもしれない。聞いてみますね」
「俺も、もう少しユチューバーとしての井坂豊について調べてみるよ」
その日、後藤雄一が、会社で井坂豊について調べてみると、一昨年度、全国ユーチューバー人気ランキングで10位に入っていた井坂も、現在は、全国100位以内にも入っていず、ユーチューバーとして既にその旬を過ぎていた事だけはハッキリ分かった。
再び、警視庁にいるサイバー犯罪対策課の上原警部に連絡を取って井坂豊の取り調べ状況を聞いてみた。しかし、殺人事件そのものは刑事部捜査一課の取り扱いで、上原はほとんどその状況は知らされていなかった。
ただ、井坂豊が、あまりに支離滅裂な供述を続けたため、本当に精神障害が疑われ、某有名大学の精神科の教授に、簡易精神鑑定を行って貰ったと言う話までは確認できた。これは捜査一課の刑事がしていた話をこっそりと上原が耳にした情報による。
しかし某教授は、精神障害では無いとハッキリと明言したらしい。すると、これはワザと精神障害を装っている、いわゆる「詐病」なのだろうか?
井坂豊は曲がりなりにも私立K大経済学部在学中である。つまり心身喪失状態にあれば、罪は問われない事ぐらいは常識として知っている筈だ。これを狙っての行動なのだろうか?
しかし、仮に『刑法』上の罪は免れたとしても、代わりに医療刑務所に入所させられ事になる。
それにしても、自分の意思で無くて、それでいて殺人事件を起こす事など、果たして現実問題としてはあるのであろうか?
これについては、妻の優子のほうが詳しいかもしれない。
夜、会社から帰宅した雄一は、妻の優子に、今日、警視庁の大学の同級生に聞いてきた事を話した。優子は優子で、K大に進学した高校時代の同級生に、最近の井坂豊の動静を聞いてきていた。
ただ、優子の話によると、この1年で井坂豊の性格は激変していた事が分かった。何かに取り憑かれたようにフラフラと学校に来ている事もあったらしい。
「やはり、統合失調症か何かの精神的な病に罹っていたのかなあ……」
「でも、井坂豊の陳述内容が、どうにも気になるわ?
自分の意思ではなく、誰かが、自分の心を支配しているとは、本来なら雄一さんの言うとおり統合失調症の典型的な症例なのだけど、簡易精神鑑定したN大学の博士は、精神医学界では日本でも5本の指に入るほどの先生なのよ。その先生が、精神病でないと言っているとすると、どのように解釈したらいいんだろう?」
「まあ、あまり深く考えなくていいんじゃないか?井坂が同居中の恋人を殺害した事実だけは動かせないからな」
「うーん、私には、もっと深い何かがあるように思うんだけど……」、と妻の優子は何処か納得できない様子だった。
しかし、同じような悩みは、実は、警視庁刑事部捜査一課も抱えていたのである。
犯人の井坂豊は、
「この俺が、包丁で恋人の小林奈々を殺害した事は間違いがない。しかし、最大の問題は、この俺の意思で殺したのでは無い事だ。つまりこの俺には故意が存在しないのだ。誰かがこの俺に命令したのだ」との主張を繰り返す。
遂に、別の高名な学者3人にも、精神鑑定を依頼する事になった。しかし、驚くべき事に、3人が3人とも、井坂豊は精神障害ではないと断言したのである。
結局、この3人プラス最初の簡易鑑定の結論を踏まえ、井坂豊は罪を逃れるために「詐病」を使っているとして、東京地検に書類送検されてしまった。後は、検察の仕事だと言わんばかりの仕事ぶり。
東京地検では、この「詐病」説を元に公判を戦うべく、被害者の血の付いた包丁、その包丁に井坂豊の指紋がついている等々の、直接証拠を山程揃え、裁判員裁判に持ち込むと言う筋書きで話を進めていったのである。
それから、数ヶ月間、何の進展も無かった。
しかし、嫌な話を、後藤雄一は耳にしたのである。同じ社内の同僚の記者が、妻の優子らしき女性が、最近、例の本田秀一と喫茶店で会っていたのを見たと言うのである。
これは、彼女の話からすれば、大変に矛盾する行動であった。何故なら、本田秀一が一番の危険人物だと言っていたのは他ならぬ優子自身だったからだ。
この話に疑問を感じた雄一は、休日に、さりげなく本田秀一との逢い引きの件を聞いてみたのである。しかし、妻の優子は、待ってましたと言わんばかりの笑顔で、雄一にその理由を説明し始めたのである。
「あのね、雄一さん。私は、井坂豊の自白内容から、もしかしたら、井坂豊は何らかの心理的誘導を受けていたのでは無いのか?との仮説を立てて、この数ヶ月、色々研究していたの。
そして、遂に、ある秘密を発見したのよ。それが、この動画、つまり『チワワのチーちゃん週間物語』の投稿動画の中にあったのよ、見てみる?この画面を発見してくれたのは、同じ大学の、凶悪犯罪研究会の上級生らで、パソコンや電子機器に凄く詳しい人達なのよ」
「一体、どんな画面なのだ?」
「それは、そのユーチューブの最後の一画面、つまり動画の中の最後の一画面、1秒間に24コマ~30コマあるビデオの最終画面のたった一画面に、全ての謎の鍵があったのよ」
しかも、その画面は、正にあっと驚く画像であった。
小林奈々の首元に包丁が突き刺さり、鮮血が飛び散っている、明らかにCGで作成された画像だったのだ。
「何なのだ、この画像は?」
「サブリミナル効果よ!」
「サブリミナル効果とは、あの、映画館でコーラを飲ませたと言うあの話なのか?」
ここで、サブリミナル効果の話を極簡単にすると、1957年9月頃、アメリカのある映画館で、撮影中の映画の中の一コマ、一コマに、コカ・コーラの写真を挟んで上映したところ、観客がいつも以上に、コカ・コーラを注文したとされる心理実験の事である。ウイキペディアには、サブリミナルとは「潜在意識の」という意味の言葉だと書いてある。
「そう。私は、この画面を見て、初めて井坂豊の殺害動機が理解できたのよ。
『チワワのチーちゃん週間物語』を投稿動画は、敢えて、現役のT大生と分かるような画面になっていた。
井坂豊も元々は第一志望はT大だった。ユーチューバーで人気が出てきたので、T大は受からなかったらしいけどね。だから、当然、ユーチューバーでもあった井坂豊もその画面を見る事を想定して、あの動画投稿は行われたのよ……」
「うーん、簡単には信じられない話だがなあ…」
すると、優子は鞄の中から、デジタルボイスレコーダーを取り出した。
「この中に、本田秀一との会話が入っているの。雄一さんが私が本田秀一と会っていたと言う日の話を録音してあるの」
「大丈夫だったのか?もしこの話が本当なら、いわば殺人犯と直接会うようなものじゃないのか。はじめに言ってくれれば、僕は、心配で絶対に止めたのだがなあ」
「大丈夫よ、この画面を発見してくれた凶悪犯罪研究会の先輩らに、近くの席で待機してもらっていたからね」あの優子に、そんな度胸や勇気があったとは驚きだったが、考えてみればこのマンションにたった1回の見合いで、その日のうちに、押しかけ女房同然で転がり込んできた女性でもある。それぐらいの事はやりかねないかもしれない。
「じゃ、その時の話を聞かせてみてくれ」
その話の内容は、優子が、サブリミナル効果で殺人は行えるか、どう思う?と、ゆっくりと、T大の同級生でもある本田秀一に聞いている会話だった。
しかし、本田秀一、あのホッケーマスクの男は、この優子の質問に、極めて冷静に学問的に回答していた。
「サブリミナル効果で、殺人事件を起こしたと言う殺人事件例は、かってない。
心理学的には、多少の効果はあるらしいが、人を殺すまでの強烈な殺意を持たせる事は、不可能であると言うのが通説だ。
その質問をするところをみると、東優子さんは、『チワワのチーちゃん週間物語』の投稿画面の中に、そのような画面をあった事を発見したのかもしれないが、残念ながら心理学的には不可能な話なのだ。当然、不可能である以上、この僕を刑事告発しても、井坂豊の殺人事件との相当因果関係が無いため、この僕は書類送検すらされないよ。まあ、結構いいところまで追求した努力は認めてあげるがね。
この話は、例えばだよ、「丑の刻参り」をした人物が、殺人罪や殺人未遂罪で刑事告発されないのと全く同じ理屈だよ。『刑法』的には『不能犯』と言うらしいが。
じゃ、僕には時間が無いので、今日はこれで……」
「だが、本当に危なくはないのか?」
「大丈夫よ、本田秀一は、例の論文の作成に現在ようやく取りかかっているみたいだし、彼の言うとおり、例えこの話を警察にしても、多分、全く相手にされないでしょうねえ。
井坂豊の殺害動機は、やはり何らかのいざこざが小林奈々との間にあったのが原因なんでしょう。それに高名な精神科医らが彼は精神障害では無いと言ってはいるけれど、もしかしたら、何らかの違う精神的な病気なのかもしれないし……」
「うーん、何ともスッキリしない話だなあ……」
確かに、妻の優子が発見したというサブリミナル効果の面は、新しい発見ではあったものの、この効果だけで井坂豊が殺人事件を起こせるとは、自分も到底思えなかった。
何かが、まだ、あるのだ。この俺の知らない何かが、この井坂豊の殺人事件の裏にある筈だ。それは一体何なのだ!まず、この点を追求しないと、どうしても、自分の心が心底納得できない。
しかし、心理学的の知識の無い自分にしてみれば、この問題の解決とは、警察や検察も巻き込んでの、正に「群盲象を評す」状態に陥っている状況なのだ。
後藤雄一は、別の観点から、この一連の事件を再検証してみる事にしてみた。
まずは、優子の友人で、本田秀一の同級生の中野涼子に会って話を聞いてみよう。 何故なら、これまでの本田秀一の正体についてのホトンドの話は、妻の優子からしか聞いていないのだ。
無論、自分もそれなりに調査はしてきたが、妻の優子が言っていた本田秀一が、窓の外を見て、甲高い奇声を上げてケラケラ笑っていたかどうかは、妻の優子からの一方的な話だけであって、その話の裏付けが取れていない。
それに、母校のH大学へ行って、社会学部の社会心理学の教授に、サブリミナル効果等の効力の有無についても、専門的な意見を聞いてみようと思った。
まずは、中野涼子にうまく連絡を取って会う事になった。勿論、妻の優子には秘密にしてくれと頼んでおいた。本当は二人は同級生で友人なため、あまり突っ込んだ話はできないので、あなたの目から見ての本田秀一感を聞きたいと言う事にした。
しかし、中野涼子は、本田秀一の異常性は以前と同じように確かに指摘はしたものの、妻の優子が言っていたような奇声を上げて笑っていた様子は、自分は見ていないと言った。ただし、中野涼子はその場面に出くわさなかっただけかもしれないので、何とも断言はしかねる。
2日後、今度は、母校のH大学へ赴き、社会心理学の教授に面会した。
後藤雄一が最初に聞いてみた事は、果たしてサブリミナル効果で、殺人の故意を持たせられるかと言う一点であった。しかし、母校の大学教授は、
「サブリミナル効果のみで、相手に殺人の故意を持たせる事は不可能です。大体が、サブリミナル効果自体、正統的な心理学界では公には認められていません。かって、そのような実験が映画館であったと、都市伝説のように一部の人間が言っているだけです。
丁度、「ブアメードの血実験」のようにね」
「その「ブアメードの血実験」とは、どんな実験なのですか?」
「これも、都市伝説ののようなもので、実験国・場所・年代もハッキリしないのですが、要は囚人に人間の血液を何リットルかを抜いたら死んでしまうと暗示を掛け、実際は囚人の血を抜く事はせずに、近くに用意した洗面器に浸した布地から水滴がポタリポタリと落ちる音を聞かせ続けたところ、実際に囚人が死んでしまったと言う実験です。
ホントの話かどうかは分かりませんが。
まあ、プラシーボ効果の反対のノンシーボ効果と言う現象でしょうか…」
「そうですか……やはりサブリミナル効果のみでは、殺意は起こせないのですね」
「しかし、私の考えですが、一つだけ可能性があると思います」
「それは?」
「サブリミナル効果+強力な催眠術で、もしかしたら、可能かもしれません」
「本当ですか?」
「あくまで可能性だけです。これまでにも、そのような心理学的実験はありません。ただ、かって、ハイデルベルク事件と言う事件が、戦前のドイツであったと聞きます」
「ハイデルベルク事件とは?」
「これも本当にあった話だと言う説と、作り話だと言う説の二つがあるのですが、1930年頃、ある精神的に弱っていた御婦人を、治療と称して催眠療法士が催眠を掛けて、その夫を殺害させると言う話です。
結局、殺害は未遂に終わり、後に精神科医が調べたところ、その御婦人は催眠術で夫を殺すように催眠術を掛けられていたとか。まあ、これも都市伝説に近い話と私自信は思っていますが……」
「私の妻は、現役のT大文学部心理学科の学生なのですが、怖い話ですね」と、雄一が相づちをうった時である。
「そうですか。ですがT大の文学部心理学科には、エリクソニアン催眠法の大家がいます。現在は、同大学の名誉教授になっている筈です」
「エリクソニアン催眠法とは?」
「アメリカのミルトン・エリクソンが開発した催眠法で、要は言葉だけで催眠術を掛ける事ができると言う、ある意味究極の催眠術でもあるのです」
だが、この話を聞いて、そういえば優子はその催眠術の大家でもある名誉教授に、特別に目をかけらてもらっていると言っていた事があった事を思い出した。
何か、ここに謎を解く鍵があるのだろうか?
そもそもである。よく考えてみれば、東優子の父親は、どうしてあれ程の美人で現役のT大生でもある自分の娘を、まるで邪魔者でも追い出すようにこの私に押しつけたのだろう。言い換えれば、やっかい者を押しつけるようにだ。
……確かに変だ。会ったその日から実の娘をマンションに持ち帰ってくれという父親など、よく考えてみれば、この世に果たして存在するものだろうか?
優子に、もしかしたら何か隠された過去や事実があるのでは無いのだろうか?
急に、心配になってきた。
無論、妻としての優子は、テキパキと家事をこなしながら、勉強のほうも真面目に頑張っているのは感心できる。どこにも不思議な点は無い。しかし、何かが可笑しいのではないかろうか?一度、妻の過去を探ってみようではないか?
後藤雄一の雑誌記者の本能に再び火がついていた。もう、鬼が出るか蛇が出るかが分からないが、後戻り出来ないのだ。しかし、この点に目をつむる事はできないように思えた。
取材と称して、会社を出た後藤雄一は、妻の優子の実家のある浅草の問屋街に足を運んだ。誰か、彼女の小さい頃を知っている人はいないものだろうか?
足を棒にして歩き廻ってもなかなか、妻の小さい時の頃を知っている人には出会えない。
ふと、優子の自宅近くの私立保育所に目が向いた。彼女は、小さい時に母親を亡くしている筈だから、きっとこの保育所に通っていた筈だ。その中で、彼女の小さい頃の事を知っている保育士がまだいるかもしれない。
ダメ元で、その保育所長に面会を申し込んだ。無論、自分の社員証や名刺を見せての取材申し込みであった。取材理由は、彼女が、ミスT大の準グランプリになった事であった。確かに自分との同居前、彼女は、ミスT大のグランプリで準グランプリを勝ち取っている。
運が良い事に、保育所長は、東優子の事をしっかりと覚えていた。
そして、彼女がミスT大の準グランプリになった事も知っていた。しかし、彼女の話をする時の表情がどことなく暗いのだ。その点を突っ込んで聞いてみると、
「ここだけの話なんですけどねぇ……」と保育所長は、衝撃的な話をし始めた。もし、後藤雄一が優子の事実上の夫だと知っていれば決して言わなかっただろうぐらいの非道い話だった。
「彼女は、小さい時から凄く頭のいい子でした。ただ、時折、考えられないような事件を起こした事もあるのです」
「その事件とは?」
「近くの野良猫を、生きたまま砂場に埋めて、何匹も殺してしまった事です」
「え、えっ、その話は本当なのですか!」
「私が、彼女にどうしてそんな事をしたのって聞いたら、お母さんが亡くなったので自分でも何が何だか分からないままにカッとなって砂場に埋めた、と言うような返事でした」
「先生は、その時どうされたのですか?」
「まだ小さい子供のした事です。もう少し様子を見守ろうと考えました。で、誰にも言いませんでした。けれど、この判断は正しかったようで、やがて彼女はいつの間にか普通の子供のように育っていきました」
「そうでしたか……」と、ここで、後藤雄一は妻の隠された深層心理の奥底に横たわる闇を見たような気がした。彼女のライフワークが、犯罪心理学の心理的機序の解明にあると言うのも何となく首肯できるではないか。
そう考えると、このような心の闇の部分を、妻の優子の父親が漠然と察知していて、この私に彼女のお守りを任せたのではなかろうか?そう考えれば、あの日の父親の社会的常識を逸脱したような行動がよく理解できるではないか。
そうとすれば、井坂豊の殺人事件に彼女が一枚かんでいるのだろうか?あるいは、ホッケーマスクの男の本田秀一の投稿動画に、何か絡んでいるのであろうか?
もし、もしもである。深層心理に闇の部分を抱えている妻の優子が、そのエリクソニアン催眠法とやらを、大学の名誉教授から習っていたとしたらどうであろう。
いやしかし、こう言う推理もありうる。あのホッケーマスクの男の本田秀一が、同じ大学のその名誉教授からエリクソニアン催眠法を習い、ここで、サブリミナル効果+強力な催眠術を使って、井坂豊を例の殺人事件に導いたのかもしれないではないか?
ここにきて、今まで解けなかった謎が、急激に解けてきたように感じた。井坂豊をあの殺人事件に導いたのは、もしかしたら妻の優子なのか、本田秀一のどちらかではないのか?それとも共犯なのか?
自分としては、今回の事件に妻の優子が絡んでいる事だけは決してあってはならない事を祈るばかりだ。
ただ、ハッキリしてきた事もある。井坂豊の言っている事は、今まで「詐病」とされてきたが、真実な告白なのかもしれないと言う事であった。
よし、最後の決め手として、例のT大の心理学の名誉教授に会ってみよう。そして、井坂豊の殺人事件についての名誉教授の意見を聞いてみよう。
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