狂気のユーチューバーⅠ !!!
立花 優
第1話 狂気のユーチューバー
この話は、コロナが流行る4年前の時の話である。
時間を持て余している私立W大学3年生の後藤明は、アパートで、暇な時は液晶テレビでユーチューブを見ていた。ある日、随分変わったユーチューブの画面を見て、もの凄く気分を悪くした。
それは『チワワのチーちゃん週間物語』との題名のユーチューブの投稿画面であって、最後のほうで、ホッケーマスクを被り、地声を音声変換器で変換した学生風の男が、次のようにユックリと語りだしたからだ。
『僕はこれから驚愕の心理実験を行います。それは一年後、僕は、精一杯可愛がったこの愛犬を実際に食べれるかどうかの実験を行うのです!』
このホッケーマスクの男は、投稿名もホッケーマスクとしていた。最初、この投稿画面を見た時の後藤明は、これは単なる炎上狙いの与太話だろうと思った。
それにしても、このホッケーマスクの男が飼っているチワワのチーちゃんが、また、何とも言えない程可愛いのだ。瞳は全部、漆黒の黒色で、また行動も雌犬で年齢も生後数ケ月のせいか大変に大人しい。無駄吠えもしない。
雌犬故に、真っ赤な犬用の服も着せて貰っている。チワワファンなら、自分でも飼いたくなるほどの、まるで人形のように愛くるしい姿で、テレビに映っている。
しかし、翌週の同じ時間帯に投稿されたホッケーマスクの男の話を聞いて、後藤明はおや!と思った。もしかしたら、この男は、本気でそのような残酷な実験を行う危険性があるのではないか?と感じたからだ。
後藤明がそう感じたのには、理由があった。
「僕が、これから行おうと言う心理実験は、1961年にアメリカのイェール大学で行われたスタンンレー・ミルグラムが指導主催したあの「アイヒマンテスト」や、1971年に同じくアメリカのスタンフォード大学で行われたフィリップ・ジンバルドーが指導主催した「スタンフォード監獄実験」を超える、人間の心理の根幹に触れる一大実験なのです」と、そう言い切ったからだ。
ホラー映画好きの彼が、かってレンタルDVDで借りて見た映画にそのような映画があった事も思い出した。確か『エクスペリメント』だったか?ドイツ映画の『エス』だったか?
更に、動画を再生してよく注視してみると、ホッケーマスクの男の本棚には心理学の本が沢山並んでいた。しかも、大学の学生帽がチラと写っており、その帽子の紋章は日本一難関と言われる国立T大のものであった。
これに対しても、後藤明はモロ露骨な嫌悪感を感じた。なぜなら、後藤明はもともとはT大志望だったが、二浪してもなかなか合格できず、結局私立のW大に進学したからだ。そのような恨みもあったから、なおの事、このホッケーマスクの男に、悪意とそれと共存する特別な興味を抱いたのだ。
次の翌週、つまり3週目に入って、更にホッケーマスクの男は、
「僕は、今18歳であり、仮に一年後、この実験が成功して、僕が現実に愛犬を食べる事ができたとしてもまだ19歳です。つまり『少年法』の適用範囲内にあります。
何と言っても自分の犬ですからどうしようと器物損壊罪には当たりません。
また、『動物の愛護及び管理に関する法律』に抵触するかもしれませんが、それは、僕が、自分の感情に打ち勝って正に意思の力で愛犬を食べた場合だけです。食べれなければ実験は失敗しますが、『動物の愛護及び管理に関する法律』には違反しませんよね」と語り始めるではないか。
ところで、後藤明のオジサンは、世間でも有名な週刊誌『週刊文芸四季』の記者であった。この『週刊文芸四季』は、いわゆる不倫ネタで一世を風靡している有名な週刊誌であった。ついたあだ名が「文芸砲」といい、日本でも有名な雑誌である。
ただ、最近は不倫ネタもややマンネリ化してきた事から、同社雑誌に勤務しているオジサンからは、自分の周りや世間で何か面白く変わった事があったら、メールでも何でもいいから送ってくれと言われていたのだ。
後藤明は、3週間続けて見たこのユーチューブの異様さを、その理由も添えて書き出して早速メールを送った。
この甥に当たる後藤明のメールを見て、『週刊文芸四季』の記者であったオジサンの後藤雄一は、ハテこれは何なんだ?と、自問自答を繰り返した。
何故なら、これは非常に微妙な内容を、特に、法律的な面と心理的な面において、難しい問題を内包していたからである。法律的な問題点とすれば、このユーチューバーがまだ大学1年生らしいから、『少年法』や『動物の愛護及び管理に関する法律』が関係するものの、その適用云々の問題が絡んでくるし、心理的な面からすれば、そもそもこの投稿動画で言っている事が本物なのか?
それとも、単なる炎上狙いなのか?の判断は、この投稿動画を見ただけでは、何とも判断ができかねたからだ。
しかし、一旦、SNSで拡散されてしまえば、このニュースバリューはあっと言うまに無くなってしまう。即、編集長に掛け合って、このユーチューバーの話を記事にしなければならない。それには、まず、このユーチューバーを特定しなければならないのだ。
警視庁生活安全部にサイバー犯罪対策課がある。そこには自分の卒業した国立H大学法学部卒の大学の同級生の上原浩二が勤務している。役職は警部だった筈だ。無論、彼に頼んだところで、この謎のユーチューバーを特定し教えてくれるかどうかは、公務員法上の守秘義務の関係もあり難しい事は百も承知だ。
万が一、この奇妙な実験が本当に行われた場合、類似犯も続々出現するのではないのか?この一点で、その日が非番の上原警部を猛烈に説得したのだ。で、警視庁近くの薄暗い喫茶店で出会ってくれた。
「ほら、この投稿動画だ」と後藤雄一は言った。そして3週間分の動画を見てもらった。
「うーん、単なる炎上狙いじゃないのか?」警視庁警部の肩書きを持つ上原はそっけない。
「いや、そんな事はない。見ろよ、この再生回数。既に1万回を超えているし、いいね♥も1千件を超えている。このまま拡散していけば、同じような模倣犯が続々出てくる危険性があるんじゃないのか?」
その時である。スマホを触っていた後藤雄一は、
「ほら、これを見ろよ!既にこの動画の趣旨を真似た投稿動画や、書き込みが急増しているじゃねえか。特に、このユーチューバーなんかは、言うに事欠いて、
『私は、1年後、我が子を煮て食べるます』と投稿しているじゃねえか。これでは警察としてもほっておけない状況だろうが…。確か、アドレスやIP番号、そしてサーバーの記録を逆から辿れば、この投稿動画が、何処の誰が投稿したかは、警視庁ご自慢のサイバー犯罪対策課なら極簡単に割り出せるだろうが…」
「分かった!」
上原警部は、即、この謎のユーチューバーを部下に命じて探し出し、翌日には、同じ喫茶店で後藤雄一に会ってくれた。
「あれ、メモ用紙何処にいったかな?」と言って、テーブルの上に丸めたメモ用紙を、後藤の目の付く場所においた。目で、それに書いてあると合図を送って、まだ熱い入れ立てのコーヒーをゴクゴク飲み干して、直ぐに職場に帰って行った。
持つべきものは親友である。
感激に浸る間もなくメモ用紙に書いてあったマンションを訪ねた。管理人に、そのホッケーマスクの男とされる本田秀一が最近、犬、特に小型犬を飼ったかを訪ねると、その通りだと言う。この前からの投稿動画を見せると、確かにこのマンションに持ち込んできた可愛い子犬にそっくりだと言うのだ。
よし、ここまで確認が取れれば、後は本人を直撃するのが一番だ。
そこで文京区本郷にあるT大文学部心理学科に行って、学舎から出てきたばかりの女子学生2名に本田秀一の事を聞いてみる事にした。
うーん、最初は、何なのこの変なオジサン?と異様な目で見られたものの、『文芸四季社』の名刺と社員証を見せ、その社の週刊誌部門の編集主任だと名乗ったら、女子大生らのほうから食いついてきた。しかも、何と言う偶然か!二人とも本田秀一と文学部心理学科の同級生だと言うのだ。即、話に話に乗ってくれると言う。
後藤雄一は、この2人の女子大生を誘って近くの喫茶店で話を聞く事にした。お互いに名前を名乗り、自己紹介をした。
後藤雄一は、例のユーチューブの話をいきなりせず、まずは、本田秀一とはどういう人物かを聞いてみたのである。この2人の女子大生のうち、1人は高校時代も本田秀一と同級生だったと言った。彼女の名は東優子と言い、後々、この怪事件に大いに関係してくる事になるのだが、それはまた後の話。
また、この2人の女子学生ともに際だっていたのは共にT大生とは思えない容姿だった事だ。東優子は、伊達色眼鏡をかけてはいるが、身長は165センチ程度はありそうで、その細面の顔立ちはきっと美人を想像させたし、もう一人の中野涼子は、身長は160センチ前後、Vネックのセーターとミニスカートと言う出で立ち。顔は東優子よりは若干落ちるものの、その代わり中野涼子の胸は大きく露出され、まるで風俗嬢のようなイメージであった。それが、T大生と言う知性のオーラの放出で何とか学生ぽく見えたのだ。
ともかく2人とも、かの有名な『週刊文芸四季』の記者が、一体、何のネタで本田秀一に探りを入れているのか興味津々であった。
「本田君、誰か芸能人とでも不倫しているの?」と、女子大生の中野涼子が聞く。
「んな事、絶対ある訳がある筈が無いでしょ」
「じゃ、何なの?後藤さんだっけ、一体どういう理由で本田君の事をリサーチしている訳?」と、中野涼子が更にしつこく質問をしてくる。
「いずれ世間も分かると思うが、ともかく、ここだけの話にしてほしい。それはお互い誓えるかい」
「勿論よ、で、一体どんな話なの?」と、東優子は身を乗り出して聞く。
ここで後藤雄一は、自分のスマホで、3週間分の『チワワのチーちゃん週間物語』のユーチューブの画像を見せた。
この画像の中で語られている、「アイヒマンテスト」や「スタンフォード監獄実験」の話に東優子は即反応した。彼女によると、今、大学では一般教養の授業がメインで個々の心理学の話までは授業が進んでいないのだが、もともとT大の心理学科に入ってくるような学生は、既に高校生時代から、独自に、自分なりの心理学的研究目標を有して大学に入学してきていると言うのである。
東優子の心理学上の大きなテーマは、犯罪心理学上における「大量殺人鬼」や「猟奇殺人鬼」の心理的な機序の構築の解明であって、だから、このような猟奇的とも言える「アイヒマンテスト」や「スタンフォード監獄実験」についても、ある程度の知識を高校生時代から持っていたと言うのだ。
「そっか、我が大学文学部歴代トップ合格の本田秀一君は、やっぱりサイコ系の人だったのか。それで、彼女と別れた理由も何となく分かるような気がするな」
この東優子の言葉に、
「本田君には彼女がいたのですか?」後藤雄一が聞き返す。
「さっきも言ったように、私と本田君は高校の同級生でした。本田君には彼には不釣り合いの美人の彼女がいたのです。でも、その彼女とは高校2年の夏頃既に別れています」
「理由は?」
「よくわ分からないけど、こんなサイコな投稿動画を流すような性格なら、彼女から別れたのではないのかしら。でも、彼女の新しい恋人は1学年上の上級生の当時ユーチューバーだったと聞いているから、この本田君の投稿動画は、案外、彼女の新しい恋人になったユーチューバーへの当てつけでの、そのためのメッセージかもしれないけどねぇ……」
「そのユーチューバーとは?」
今度は、東優子がスマホのユーチューブの画面から、『ピラニアテレビ』と言う投稿名の画面を見せてくれた。
「この、ユーチューブ上に自分専用の投稿画面の『ピラニアテレビ』を持っている、ほら、この人が、本田君の彼女を奪った人です。背も高いしハンサムだしね。
だから、彼女を寝取ったと言う噂話もあった程です。本田君より1学年上で、現在、私立のK大に通ってます。彼の本名は井坂豊と言います。高校生時代からユーチューバーだったし、また昨年は、人気ユーチューバーランキングで、日本で10位以内に入ってます」
「つまり、東さんの考えでは、恋人を寝取られた腹いせに、こんな訳の分からない動画を当てつけに投稿していると言う事になりますね」
「勿論、そういう可能性もありますし、本田君て頭はもの凄く良いんだけど、どこか常人とは変わったところが見受けられたから、あるいは、本気でこのような残酷な実験を、1年後実際に行うかもしれないわね」
「その確率は一体どれ程だと思われますか?」
「私の見立では、1/3、つまり33%です」
「それほど、本田秀一君は、変わっているのですか?」
「私はまだ心理学の専門課程の勉強はしていませんから何とも断言できませんが、あの、時折見せる目付きは、サイコパスかパラノイアの傾向が感じられます」と、東優子。
「私は、むしろアスペルガー症候群、いや、彼の頭のもの凄い良さから推理すればサヴァン症候群に近いと思うけど……」と、今度は中野涼子が補足的に言う。
サヴァン症候群など聞いた事もなかったが、どちらにしても危険で危ない人間に違いがなさそうだ。後藤雄一は確信を持った。少なくともT大の同級生のしかも心理学専攻の女子大生らが二人口を揃えて言うのだ。あの動画の宣言が実施される可能性が、1/3とは……。これは危ない。
もう、最後には本人に直撃取材しかない。これは、数々の芸能人の不倫ネタを取ってきた自信から、そう抵抗はなかった。無論、人によっては取材したでけで怒り出す人間もいるが、それも、もう十分に慣れている。
東優子がスマホに、本田秀一の写メを取っていた。後藤雄一はその顔を自分のスマホに転送してもらい、再びT大に戻った。もしかしたら、既に、先のマンションに帰っているかもしれないが……。
しかし、偶然、彼らしき人物が向こうから歩いてくる。身長は、175センチ弱、顔付きは能面のような感じで、東優子が言ったとおり確かにサイコ系の目付きをしているが、逆の見方をすれば、それが秀才や天才の持つ独特の感性を発揮しているようでもあり、女性にとってみればその独特の秀才感が、逆に憧れの的となるかもしれない。この男が、高校生の時に美人の彼女がいたとすれば、この秀才感、あるいは天才感に、その女性は惚れたのかもしれない、とそう直感した。
ともかく、これは絶好のチャンスだ!逃がす手はない。
「あの、もしかして、本田秀一君ではないですか?」
「はあ?」
「私は、『週刊文芸四季』の記者で、後藤雄一と言うものです。時間が無いのでハッキリ聞きますが、今、ユーチューブで流れている『チワワのチーちゃん週間物語』に出てくるホッケーマスクの男とは君ではないのですか?」
「僕は、ユーチューブなんかしてません。失礼します」と、本田秀一はニベも無い言い方で、その場を離れようとしていた。
「君は、本気であの可愛いチワワを食べるつもりですか?」
「愚問には、お答え出来ません」そう言って、本田秀一は足早に帰っていった。
その後をこっそりと着けていったら、案の定、例のマンションに戻った。これで、本田秀一がホッケーマスクの男に間違いが無い事が証明された。社に戻って、急いで原稿を書いた。運が良い事に、見開き2ページ分の原稿が、今週号の発行に間に合いそうだ。
雑誌の見出しは、
『狂気のユーチューバー、自分の愛犬を食べるのか!』と、扇情的なものにし、本田秀一の名前は勿論出さす、都内の超一流大学の心理学専攻の学生が動画の投稿主であって、これは単なる炎上狙いの投稿動画なのか、あるいは本気で愛犬を食べるのかは、これからじっくりと同投稿動画を注視する必要があると書いた。
しかも、問題はそれだけではなく、既に、彼の投稿動画を真似るユーチューバーが多数出現してきている事だとも書いた。
『私は、1年後、我が子を煮て食べるます』などと言う、とんでもない人間も出現してきて、この投稿動画の危険性を週刊誌の記事で訴えたのである。
しかし、一つだけ不思議な事実があった。
このホッケーマスクの男の真似をして、似たような投稿画面がどんどん増加していったものの、誰もこのホッケーカスクの男より先の時期に、愛猫を食べるとか、愛犬を食べるとか、誰一人も言っていない事なのだ。
つまり、皆、この『チワワのチーちゃん週間物語』の結末や結果をみてからの、行動予定となっている事だった。皆どこか半信半疑なのだろう。
この後藤雄一の書いた記事が、『週刊文芸四季』に載ると同時に、『チワワのチーちゃん週間物語』の再生回数は超激増。それに比例して、SNSの世界では、いよいよ過激な内容の投稿が増えてきていた。
それとともに、民放のテレビ局も直ぐに動いた。某テレビ局はどんな手段を使ったかは知らぬが、ホッケーマスクの男の単独インタビューに成功したとして、独自の特番を放送するまでになった。まさか、と後藤雄一は疑ったが、もともとホッケーマスクの男は、大学の紋章をワザとか偶然とかは分からぬが、チラと投稿画面に載せているのだ。つまり、これは確信犯でないのか?
テレビ局の独占インタービューの中で、本田秀一と思われる男は、いつものホッケーマスクをかぶり、声を変えて、自分の今回の実験は、人間の心理の心底を検証する世界でも珍しい実験なのだと力説した。そして、最後にこう言った。
「いわゆる、自分の決心どおりに精一杯可愛がった愛犬のチーちゃんを本当に食べる事ができるのか、それとも僕の良心や愛情が、自分の決心に負けてしまうのか?また、本当に愛犬を自分の愛情や良心を超えて、万一僕が愛犬を食べた場合、自分の心が人格崩壊を起こさないのか?この実験は、古来からの疑問、人間の性善説・性悪説の問いに対しても、明白な回答を出せるものと、僕は考えています」
「ただ、今現在の段階で、僕の投稿動画のみで、この僕を『動物の愛護及び管理に関する法律』違反に問う事はできない筈です。それは、僕がいかに大切に愛犬を可愛がって育てているか、僕の動画を見て頂ければ簡単に分かる筈ですので、では、僕はこれで…」
本田秀一の心理学用語を駆使しての番組の特番は終わったが、その番組で、約10週間分の『チワワのチーちゃん週間物語』のダイジェスト番を流していた。
更に、半年後、この投稿動画の中身は、更に急激に変化してきた。
まず、最初のほうの「猫可愛がり」の場面は、いつもの通りなのだが、今までと違うところは、
「今日は、チーちゃんを煮るための大きめの鍋と包丁を買ってきました」
「今日は、チーちゃんを味付けするための、すき焼きのタレを買ってきました」
などと、少しづつ本田秀一が、愛犬を食べるための準備を始めた事を投稿し始めた事だった。何しろ、この半年間は本田秀一からの一方的な話、それも心理学に特化した話ばかりで、具体的な行動は何も無かったから、余計、視聴者の目を引いたのである。
そのためか、気の早い者達は、SNS上で、
「やっぱ、ホッケーマスクの男は、どうも本気らしいぜ」
「後、半年後、あの可愛いチーちゃんを煮て食べるつもりなんやろうか?」等々の、過激な意見が駆け回ったのである。
既に、後藤雄一と東優子とは、メールもラインも交換していた。この半年間、後藤は彼女に本田秀一の見張り役を頼んでおいたのである。ある意味、それだけ仲良くなったと言う事でもあった。
T大内でも、この不可解な投稿動画を繰り返している人物が、本田秀一である事は、皆、承知の事実となっていた。しかし、誰も手を出せないのである。
文学部長は、法律的な面を法学部長に相談してみたものの、殺人を示唆しているのなら殺人未遂罪で何とか対処できるかもしれないが、今のままでは、いかなる法律にも該当する可能性は無いと聞いて、手をこまねいていたのである。
そして仮にである、現実に、本田秀一が愛犬を食べたとしても、その時の心理的葛藤や良心との格闘を、現在までに存在しない斬新な学術論文として発表された場合、今までに存在しない画期的論文となる可能性や期待感もある。
T大内の学部長らの大方の意見は、世間に与える影響は決して芳しいものでは無いとしつつも、今しばらく様子を見ようと言う結論に落ち着いたのである。……もっと言えば、この投稿動画を削除しないよう、ユーチューブ社に顔の利くOB連中に手を回したのである。
いよいよ、本田秀一が最終期限とする、チワワを買い始めてから1年目に近づこうとしてきた。
最初の登校日は、昨年7月の第一週の日曜日であった。つまり万一、その実験が行われるとすれば、今年の6月末の週の日曜日か、7月の最初の日曜日と言う事になる。
本田秀一のマンション内には、大きな鍋、肉切り包丁、その他の調理器具の他、すき焼き用のタレ、盛りつけ用の大皿等が既に準備されており、後は、本田秀一の決断一つだと言う事は、視聴者にもハッキリと理解できるようになっていたのである。
それでいて、本田秀一の愛犬のチワワの可愛がり方は、それはそれは人並み以上で、高級な犬缶を与え、また雌犬なので可愛いリボンや真っ赤な服を着せてもらうなど、その扱いは動物虐待からは、ほど遠いものであった事もまた否定できない事実であった。
さて、1年目近くに到達したとして、ホッケーマスクの男つまり本田秀一は果たして如何なる行動に出るのであろうか?
しかし世間のこのような異常な盛り上がり方に、警察(警視庁)も黙っていなかった。
『私は、1年後、我が子を煮て食べます』を投稿した男が、実際に30歳の成人男性で、満2歳児を養育し、近所から児童虐待の通報もあった事も判明した事から、一罰百戒の意味もあったろうが、殺人未遂及び児童虐待の罪で、検察に書類送検を行ったのだ。
無論、この投稿画面自体が、既にユーチューブ社から強制削除されていたのにも関わらずにである。
この逮捕の一件で、本田秀一を真似たユーチューバーは、投稿画面上で自分の投稿は注目を浴びたいだけの軽い冗談だったと、臆面も無く謝罪する者が続出。昔の学生運動家の言葉を借りれば、「転向宣言」を次々に行っていったのである。
しかしながら、『チワワのチーちゃん週間物語』だけは中止にはならなかったのだ。
ホッケーマスクの男は、更に、過激な言動を投稿していく。
「今日は、チワワの人形で首を切断する練習をします」と、そう断言したあと、玩具店で売っているような子犬の人形の首を、肉切り包丁でバッサリと切断してみせた。徐々に、その内容は過激になっていったのである。
そして、運命のその日、つまり6月の最終日曜日の投稿時間になった。
日本中の多数の視聴者が、その動画の中身を虎視眈々と注視していた。
その時がきた!
大多数の視聴者は、毎回、変な投稿動画を投稿しているこのホッケーマスクの男は、その自分の宣言通りの実験をやり遂げると思っていただろう……。子犬の一瞬の絶叫と、血生臭い子犬の殺害現場、肉をさばく場面、そしてぶつ切れにした肉をすき焼き風に料理してきっと食べるでのであろう……。
しかし、何と、ホッケーマスクの男は、右手に大きな肉切り包丁を持ちながら、テレビカメラの前で、大声で泣いていたのだ。
「ぼ、僕には、出来ません!今まで、精一杯可愛がったこの可愛い愛犬を殺して食べる事など、僕にはどうしても出来ません。
この心理実験は、完全に失敗しました。でも、人間には、良心や愛情の力が、意思の力に勝る事が証明されました。つまり、性悪説は負け、性善説が勝ったのです。
そして、このの投稿動画は、本日をもって完全終了いたします。皆さん長い間、ご試聴ありがとうございました」
実にあっけない終了だったではないか。
この場面をじっとみていた、後藤雄一は、早速、
『狂気のユーチューバー、良心が勝って悪魔の実験は終了!』の見開き2ページの記事を書き上げ、最新号の『週刊文芸四季』に載せる事になった。
日本中の話題をさらった『狂気のユーチューバー事件』は、ホッケーマスクの男の1年間の暗中模索の後、こうして、あっと驚く終わりを遂げたのである。
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