第17話わたしってバカだ
キューポラ光学の本社ビルを出ると、目に飛び込んできた日差しの強さと相まって、梅はめまいを覚えた。
会談は、開出と保科の間でほとんどが行われた。話題は、東欧情勢であったり、中東情勢であったり、新たなAI技術の方向性だったり、と多岐にわたった。そのそれぞれの話題は、開出と保科の間では、それが話される必然性をわかった上でのことのように見えた。
しかし梅には、ちんぷんかんぷんだ。そんな話をする必要があるのならば、なぜ昨日の時点で、開出は梅が単独でキューポラ光学を訪ねることを止めなかったのだろう。
何かはわからないけれど、梅の知らないところで、何かがどんどん進行しているという感触はある。そして、それが、あまり好ましいものではないとも。けれども、それが何なのかはまったくわからない。
ただふたりは、腹の探り合いをしていたという感触はある。それが、開出が梅に告げた言葉に関係したものだと。話し合った今、それはどう変化したのか?
昨夜のシステムヒューマンの、理屈に合わない移籍話も、同じ根っこに繋がっているのだろうか。真藤はどこまで知っているのだろうか。
「華咲、キューポラにはどこまで話してる?」
駅に向かって歩きながら、開出が訊いてきた。
開出が最初から梅の正確な名を呼ぶなんて、いつ以来のことだろうか。けれども、だからこそ、開出の本気度が伝わる。
「ほとんど話してはいません」
梅はそう答えてから、昨夜自分が考えたことを話した。もちろん真藤やシステムヒューマンの動きなどは隠した上でだ。
「なるほど。仕様か。確かにそこからある程度の予測はできそうだな。だが、それだけでは動くはずがない」
動くはず、って何? 何が動いているというの。だけど、そこは聞いちゃいけない。聞いてしまうと、取り返しのつかないことになりそうだという予感がする。
「キューポラとは、表向きは、これまでと変わらない付き合いをしてくれ。ただし、システムの中身は絶対に口にするな」
うひょおー。まるで経済サスペンスか、なんかみたいな展開だ。そんな優秀なスパイのような行動が、わたしにできるだろうか。
「俺はちょっと寄りたいところができた。梅ちゃんはどうする?」
「もしよければ、サッカーの方に回りたいのですが」
「ああ、フラワージェット蒲浜か。うん、いいアイデアだ。いいよ、きょうはもう上がっても」
あっさりとそう言うと、開出は歩く速さを上げて、どんどんと遠ざかっていく。
なんとなく、ため息が漏れた。それが何に対しての溜息なのか、自分でもわからない。ただ、まったく、まったくだ、と、つい口ずさんでいた。
いつもよりも、かなり早くついてしまった。
梅は、寮のおばちゃんの目黒さんのところに行くことにした。お昼も食べてなかったので、つまむものがあればいただこうという魂胆もある。
目黒さんは、いつものように食堂にいた。上唇と鼻とでボールペンを挟んだ姿で、口を突き出し、電卓をたたいている。
「おばちゃん、こんにちは。何してるの?」
「ああ、梅ちゃんかい。今日も早いねぇ」
今日も、なのか。今日は、じゃないと言われれば、確かに最近は早めに来ることが増えているかもしれない。
目黒のおばちゃんは、レシートと帳簿を差し出してきて、
「どんなに工夫しても、もう無理」
と腹を立てていた。
梅は、差し出されたレシートと帳簿に目を通してみる。帳簿は赤字ばっかりだし、レシートでは、今までもよりも生鮮品に関しては、買う量が大きく落ちている。そのために増えた冷凍ものも、レシートをめくる度に値段が上がっていた。
梅も、最近物価が高くなったなぁ、という実感はあったが、もとより一人暮らしである。食材に関しては、購入する種類を少なくして、なんとかやりくりしている。ようするに、今までは入れていたニンジンや玉ねぎなんかを料理によっては使わないという方法である。
しかしそれが、ここのような寮の食事ともなれば、そうそう簡単にはいかないだろう。なにせここの住人はプロのアスリートたちだ。絶対に外せない食材も必要量も、外部委託している管理栄養士の作る献立の時点で決まっている。だからと言って、寮費を上げることもままならない。それは大変だろうな、と思う。
さらにはレシートを見ていて、梅も腹が立ってきた。食材の値上がりは許せても、その値上がりによって、支払う消費税額が、とんでもなく増えているのだ。もちろんステルス増税という言葉は知っている。だが今は、ステルスでもなんでもない。明確な意図を持って、国民から金を巻き上げることを、加速させていっている餓鬼でしかない。
「こんなに赤字で、おばちゃんどうしてるの?」
「しょうがないから、あたしの貯金を下ろして補填してるんだけど、あたしの貯金なんて知れてるからねえ」
「何バカなことやってるのよ。それじゃ働いている意味ないじゃない」
「いやいや、梅ちゃん。だからこそ、あたしは働いてるって思えるんだよ。あたしはここ一筋、35年だよ。いろいろな寮生を送り出してきたさ。ここからステップアップして、上のカテゴリーに移籍していった選手もいる。それはわたしの誇りでもある。だけど、ここでもうまくいかなくて、泣く泣くサッカーをあきらめた選手も多い。ここを去るとき、本当にひとり残らず、あたしに、ありがとう、って言って去ってくのさ。その言葉の重さに、胸がふさがれる思いも何度も経験した。だからね、もうすぐ、ここは終わりだろ。せめて、ここを閉めるまでは、なんとかわたしが頑張ろうって思うのさ」
そうか。プロ球団になれば、寮の在り方も変わるんだ。まったく想像さえしてなかったけれど、目黒のおばちゃんの仕事もなくなるってことだ。なんてうかつだったんだろう。
「わたし、上にかけあってみます」
何の力もないけれど、本気で上にかけあってみようと思った。
「梅ちゃん。ありがたいけれど、やめとくれ。みんなプロになるんだろ。もうあたしが作るごはんなんか食べてちゃいけない。もっとしっかり管理された、立派な食事をとらなきゃいけないよ。でないと、あたしの35年が報われない」
目黒のおばちゃんは、そう言って、胸を張ってから、風船がしぼむように肩を落としてしまった。
なんて言葉をかけたらいいんだろう。わたしは本当にバカだ。もっと早くから相談に乗っていれば、他のやりようもあったかもしれない。でもいまさら言ってもはじまらない。わたしにはそんな権利はないけれど、ごめん、おばちゃん、今だけ肩を抱かせて。お願い。
抱きしめると、目黒のおばちゃんは体の力を抜いて、梅の腕にすべてをゆだねてきた。
ごめんなさい。ありがとう。
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