第2話新たな世界の始まり
あの日から6年。
梅は、動力車部品メーカーであるスカイフラワーで、今ではエンジニアの仕事をしている。
あの日、どこまでも飛んで行くサッカーボールが見えた気がしたことで勇気がわいた。
身内と争うのは、できることならば避けた。だが、降りかかった火の粉は払わねばならない。法廷で争い、奪われていたほぼすべての財産を取り戻した。取り戻してみると、父と母が、梅がひとりでも暮らしていけるだけの生命保険を残してくれていたことも知ることができた。泣き寝入りしたままだったら、そんな父と母の愛情にも、やさしさにも気づけないままだった。
戦うことを選んで本当によかったと思う。
父と母の命を奪った、無謀運転がなくなる世の中を願った。だから大学の専攻を変え、編入学をして、機械工学と電子制御技術を学び、動力車の安全運転支援システムの開発者の道に進んだ。それは梅にとっては自然な道の選び方であった。
「花咲、花咲梅。ちょっとこっちにこい」
開発Bチームのチームリーダーの開出が声をかけてきた。梅はいつものように、やれやれまったという風に、首をふりふり、開出のもとに向う。
「開出リーダー。何度言えば分ってくれるんですか。わたしの名字は花の字ではなく、華の字で、はなさき、ではなくて、かざき、です」
「そりゃわかってるけどさ。花が咲くのが梅、ってほうがわかりやすいじゃないか」
「分りやすいとか、そういう問題じゃありません」
「そうかな。愛称だと思えばいいじゃないか」
「わたしが嫌だって言ってるんですから、いい加減に改めてもらわないとパラハラになりますよ」
「おいおい。脅かすなよ。この会社、ハラスメントにはごっつう厳しいんだからさ」
「だったらなおさらじゃないですか」
「わかった、わかった、花咲梅様」
「だからぁ」
「おおそうだ。まずはおまえの好きな話からな」開出は歯を見せて、にやりと笑った。「今日付でサッカー部に新人が入るぞ。それもバリバリの若手だ」
「それがどうしてわたしの好きな話なんですか」
「おいおい。若いのに物忘れが激しいやつだな。入社面接で、我が社がサッカー部をトップカテゴリーに上げたいと頑張っていることに共感しました、と答えているだろ。人事のおまえのプロフィールファイルにもちゃんと記載されてる。サッカー選手のところに嫁にいきたいんだろ」
「またまた、なんて飛躍してんですか。嫁に行きたいって、どっからでてきたんですか」
「嫁にはいかないのか。なんなら、俺のところでもいいぞ」
「セクハラですね。それに開出リーダーは妻子持ちでしょ」
「さらに家持ちだぞ」
「奥様と娘さんとの、暖かなご家庭を大切にしてください」
「刺激が欲しいんだけどな」
「絶対にやけどしますって」
「おまえって、そんなに性悪なのか」
「いい加減にしとかないと、本当にセクハラで訴えますよ」
「おいおい、冗談だろ。勘弁してよ。そんで、好きじゃない方の話な。サムライ動力車の来期の自動運転支援システムのプレゼンだが、三日早まった」
「えええええええええ。無理ですよ、そんな」
「業界第一のシステムヒューマンが、うちから顧客を取り戻そうと、サムライの上に泣きついたらしい」
「だったらうちも泣きついてください」
「うちの上は弱いからなぁ」
「会社批判で訴えます」
「だからやめろって。ああ、サッカー部の新人、15時に寮入りだ。そいつも頼む」
「わたしを殺す気ですか」
「それこそおまえが上に泣きついて、その役を引き受けたんだろが。しっかり頼む」
「プレゼンは?」
「それこそ花咲梅の真骨頂じゃないか。任せた」
「華咲です」
「わかった、わかった。ああ、それと、仕様が大幅に変った。次世代のEV向けのレイアウトも新たに届いている」
「それって、ついでに言うことじゃないですよね。プレゼン、一からやり直さなきゃならないんですよ」
「お前は天才だ。ここは一発ガツンといってくれ」
「無理」
「高田沢専務の肝入りなんで、そこもよろしく」
「開出リーダー。本当にわたしを殺す気なんですか」
「いやいや。だから、愛してるって」
「人事部に絶対にパワハラで訴えてやる」
「おお、恐。退散、退散。で、どっちも、本気で頼むぞ」
言いたいことだけ言うと、開出はプレゼンの方向性の指示も出さずに離れて行った。
高田沢専務は超タカ派で有名だ。気性も荒いし、気も短い。そんな高田沢が出てきたってことは、今回のサムライ動力車でのプレゼンが、厳しい状況にあるって証拠だ。同等ならば、システムヒューマンがこの契約は持って行ってしまう。いや、僅差ならやはりこちらの負け。はっきりとした優位性が示せなければ、アウトってことだ。
何もこんなときにサッカー部の新人が入ってこなくてもいいのに。
いや、そっちも大変な時期だった。
確かにサッカー部のマネージャー的な仕事は、会社にねじこんで、ようやく手にした仕事だ。もちろんそこには、梅の人生を変えてくれた、あのサッカー少年のことが念頭にある。いつの日か、あの少年が会社のサッカー部に入部してくるのじゃないかと、そんなことを夢想してのことだ。
だが、もうチームは、本気でカテゴリー3入りを目指すシーズンに間もなく突入する。
そっちも、片手間になんか、やっていられない仕事になる。
「ディス、イズ、ピンチ。こんなときゃ、ランチ。ここはランチ行っとくか」と梅は叫んだ。
まったく自分でも惚れ惚れするくらい男前な性格だ。
会社の女性陣とのランチは、梅は苦手だ。別につきあいが悪いタイプではないが、そんなランチには、もれなく社内の噂話がついてくる。適当に相づちを打つなんてことは絶対に無理だし、一緒になって盛り上がるなんて天地がひっくり返ってもあり得ない。だからって噂話は無視して黙々と食事をするっていう度胸もない。
だから会社の女性陣とだけのランチには一緒に行かないと決めている。
南加織がチロチロとこちらに視線を送ってきている。悪い兆候だ。加織は噂の宝石箱と呼ばれるくらいに噂好きで有名だ。口も軽いし、ついでに尻も軽い。これは何か梅の耳に入れたい噂を持っていて、そのチャンスをうかがっているのに違いない。このまま席に戻れば、すぐさま声をかけて来ることだろう。
何か言い訳を。あっ、そうだ。サッカー部の新人が15時に来るのならば、このままサッカー部の寮に行って寮母のおばちゃんにお昼をごちそうになればいい。これならば、ギリではあるけれど、仕事だし、加織の誘いを断っても、意趣返しのように悪い噂を立てられることもないはずだ。
梅は、堂々と胸を張って、自分のデスクに戻った。
「梅ちゃんさぁ、ちょっと話しがあるんだけど、時間、取れないかなぁ。絶対に聞いといたほうがいい話しだと思うんだけどさ」
予想どおり、梅が席につくやいなや、加織が声をかけてきた。
「ああ、ごめん。サッカー部の新人がきょう入寮するんだわ」
「知ってるよ。15時でしょ。その前にちょっとだけ。梅ちゃんに後悔はさせたくないの」
知ってるよ、ってなぜ? なぜ加織がそんなことを知ってるの。その新人って、本当にあのサッカー少年なの? いやいや、その少年のことを加織が知ってるわけないか。だったら、何?
「やぁ。ランチに出るところなのかな? ちょっと打ち合わせしたいことがあるから、僕もご一緒していいかな?」
今度は何? 営業一課のエースである真藤祐一まで声をかけてくるなんて。
祐一は、長く伸ばした前髪を掻きあげる仕草がキザっぽいが、背も高いし、適度に胸板も厚いし、誰もがイケメンだと納得するよく整った顔立ちをしている、会社の、色々な意味でのスーパーエース君だ。
仕事でもエースだし、恋のターゲットとしてもエースという、そんな色々な意味だ。
しかも血筋までいい。何せ今の真藤副社長がお様と言うのだから恐れ入る。さらに会社の顧問弁護士事務所の、真藤弁護士がお母様だというのだから、こっちも恐れ入る。まさに生粋のサラブレッドなのだ。
この手の二世によくある、仕事はできないというタイプではない。あまりにも仕事が切れすぎて、逆に、真藤副社長の名前を出して、けなされてしまうという、申し分のない、まさにザ・ビジネスマンである。
「真藤係長がご一緒してくださるんですか? すごくうれしいです。そうなんです。これからランチに行こうとしてたんです。ぜひ、ご一緒してください」
おいおい、加織。目をきらきら輝かして、両手をキリスト教のお祈りのように組んだそのポーズ、少女マンガに出てくるワンシーンではないか。いやいや、今のマンガなら、陳腐でクサ過ぎて、そんなカットもないか。て言うか、なんで勝手に誘ってんの。
「そうなんだ。本当にちょうど良かった。美女おふたりとランチができるだけでも光栄だよ」
こんなセリフを挨拶代わりにほざくところだけ、うっとうしい。が、こういうところを評価する女性陣も多いのだ。
なんだか分らないうちに、3人でランチに行くことは既成事実のようなことになった。ここで断るのも、それはそれで後が面倒だ。
梅はランチの話に乗る覚悟を決め、にっこりと微笑んだ。
おいおい。なんでわたしまで微笑んでる? あんたもただのメス豚かよ。心の中で一応突っ込みを入れておいた。
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