希望ってどんな色だったっけ
銭屋龍一
第1話サッカー少年との出会い
まだ幼い太陽が、それでも辺りの木々や家々や電信柱などの輪郭を少しずつ鮮明に浮かび上がらせようとしている。
梅はこのひと時が一番好きだ。
コンビニの仕事で、深夜帯を選択したのは、何も時給が高かったからばかりではない。いつもの帰り道がまるで知らないおとぎの国への小道のように思えてしまう喜びが、逆に避けたいとばかり思う現実の今日へと、やわらかく繋いでくれる。
この感覚を味わいたくて、そんな時間に仕事が終わるようにした。
こちらのほうが気持ちは強い。そして、より切実だ。
ながく息を吐いてみる。
白い息がそのまま空に昇りそうに思えるのに、それはほんの少し空に近づいただけでうっすらと青みを帯びた色に溶けてしまう。けれどもその後、空気を欲しがる肺が吸い込むそれには、ミルクの香りがある。それもなんだかうれしい。
ダウンジャケットを着込み、手袋を嵌めた手をさらにそのポケットに入れて、握りしめている。
いつもの牛乳配達の少年が手を振ってきた。
「よう、少年。きょうも元気そうだな」
梅は笑ってから、声を張って言った。
「おねぇさんって顔はかわいいのに、言葉使いはいつもながらおやじだね」
「悪いか、少年。労働の後はだれでもおやじになるのだよ」
「僕はならないけど」
「それは君のが労働ではないからだ」
「だったら僕のは何?」
「トレーニングだろ。そう言ったじゃないか。はじめてここで出会ったとき」
「そんな昔のことよく覚えてるね」
「君にとっては昔でも、私にとっては昨日のことさ」
「つまりおねぇさんが年寄りってこと?」
年寄りと言っても梅はまだ二十歳にもなっていない。けれど十代もあと少しと思えば、やはり年寄りなのかもしれない。
「その通りだけどな。それは言わないほうがいいのだぞ。とくに女性には言わないほうがいい。これから、きっと君には必要になるから、そのことは覚えておきなさい」
梅は鷹揚に応えた。
「わかったよ。いつものでいいね?」
少年から買ったヨーグルトを、勢いよく飲む。飲み終えたビンを少年に返す。
「それじゃ、またあした」
少年は、それだけ言うと、走り去っていった。
その後ろ姿をじっと見送る。
明日までか、あの少年からヨーグルトが買えるのは。
少年は、今一番人気のサッカーシューズを買うためとトレーニングを兼ねて、この辺りの牛乳配達をさせてもらっているのだと、初めて会ったときに教えてくれた。
梅の計算に間違いがなければ少年の目標は明日達成できる。
あれはまだ夏の終わりのことだった。
梅は自分の過去に思いを馳せる。
けして裕福ではなかったけれど、家族仲がよくて、自慢の父と母であった。
それを一瞬にして失った。
人はいずれ死ぬ。けれども元気そのものだった者が、無謀運転に巻き込まれて、一瞬の内に、事故で命を落としてしまうなんてことは、受け入れ難い現実であった。
さらにその上、親戚たちが、梅の親権をネタにして、すべての財産を奪っていったことが、虚しさに追い打ちをかけた。
法廷で争う元気もなくしていた。
うつろな心をどうすることもできず、自分もいっそ死んでしまいたいと、夕暮れに彷徨うようになった。
そして、あの日、少年を見つけた。
河川敷のグラウンドでサッカーの練習をしていた。
当時は、サッカーのルールもよく知らない梅であったが、それでも少年が飛びぬけて下手だということははっきりわかった。
ボールを扱えば、そのボールのほうがはるか先に行ってしまう。
一対一のゲーム形式で、組まされた相手の動きに合わせようとすると、すぐに追いきれずに無様に尻餅をついてしまう。
そんな風に一番下手なくせに、けれども一番よく走っていた。
そんなに走り続けたら心臓が止まってしまわないか?
両親を亡くしたばかりの梅は本気でそれを心配した。
なぜなのかは分らぬまま、それから毎日、少年を見に、河川敷に通った。
ある日、気がついた。
あの少年が素人目にも少しうまくなっている。
ボールを扱えば、あいかわらずボールのほうが先にいってしまうけれど、それが、なんとか追いつける範囲でおさまっている。
まだまだ下手な選手の中のひとりだったけれど、飛びぬけて下手だというのからはすでに脱却していた。
もう、自分も、心にたまった哀しみも、むなしさも、すべて解放してやってもいいのではないのか?
そう思えた。
翌日から梅は、生き延びるために仕事を探した。
死ぬことばかり考えていた人間にとっては天地がひっくり返ったくらいの大変革だ。
若干の経験もあったことから、コンビニの深夜帯のバイトの仕事を手に入れた。
この仕事の一番いいところは仕事を終えると朝が来ることだ。
そして明るいうちに眠ることができる。
年が変わって早々。梅は仕事帰りに、牛乳配達をしている、あの河川敷のサッカー少年をみつけた。
考える間もなく声をかけていた。
少年は現金売りはできないとすまなさそうに言った。
梅が、「わかった」と言うと、明日もここに来るなら社長に言って現金売りを持たせてもらうけれど、それでどう? と提案してきた。
何がどう? なのかよくわからなかったけれど、梅はそうして欲しいと頼んだ。
あれから今日まで、梅は少年から牛乳を買い続けたのだった。
それが梅の、祈りの証のように思えた。
希望とでも呼ぶべき明日に向かって、真っ直ぐにどこまでも飛んでいくサッカーボールが、確かに見えるような気がした。
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