第16話

「もう、保健室から帰ってたの?」


踊り場にいるセイラに追いついたルナが、声をかけた。


「今ここにいるってことは、そういうことでしょ」


セイラはルナの顔を見ずに、ぶっきらぼうに答えた。


「さっきはセイラの絵にひどいこと言っちゃってごめんなさい」


ルナは頭をぺこりと下げながら言った。


「謝るんなら、だいぶ前のシャーペン投げつけ事件のことも謝るべきでしょ。あとちょっとで私に命中してたんだから」


「シャーペン投げたことも、ごめんなさい」


「あとさっき、私のこと尊敬してるとか、ウソついたことも謝って。しかもみんなの前で」


「あれはウソじゃないもん!」


ルナの声が大きくなった。


「ほんとに、なんでもできて人気者のセイラのこと尊敬してるもん」


「別になんでもできないし、人気者じゃないし。本気でそう思ってるんだとしたら、やっぱりあんたって変わってるね」


「あのね、セイラ。私、今日から''変わってる''って言われても、気にしないことにしたの。自分を好きになって、自分らしく生きることにしたんだよ」


ルナは、ついさっきの住田先生の言葉を思い出しながら、得意げに言った。


「なにそれ。自分らしく生きるとか、そんなこといちいち自分で言うところが、もっと変わってるよ」


セイラは呆れた顔になった。


「変わってても、気にしないもーん」


ルナはひるまずに言った。


「気にしないもーん」


セイラはルナの口調を真似た。


「ちょっとセイラ、まねしないでよ!」


「ちょっとセイラ、まねしないでよ!」


セイラはイタズラっぽい笑みを浮かべながら、ルナの言葉を繰り返す。


「もー!セイラ!」


「もー!セイラ!」


セイラはマネしながら、吹き出した。


怒っていたルナも、つられて笑った。


「あ、そろそろ教室戻らないとヤバいよ。セイラ、一緒に行こ」


「一人で行けるから」


言い方は相変わらずそっけなかったが、セイラは照れくさそうに、微かに笑顔を浮かべていた。


「人気者とか......。初めて言われた。本当は全然違うけど」


セイラはボソッとそう言うと、長くスラっとした脚で階段を2段飛ばしで駆け上がっていった。


「あ、セイラはやっ!待ってよー」


ルナは慌てて追いかけた。


セイラとの距離が、少し、いやだいぶ縮まった気がする。


ルナはそのことがとても嬉しかった。


と同時に、お母さんとの距離もいつかこんな風に縮まるんじゃないか、とも思った。


もしかしたら、今日は上手くいくかも―。


そう思ったら、もう上手くいくにちがいない、って感じがして、ルナの胸はさらに躍った。


今日あった嬉しかったことを、お母さんに話したい。


いつも通り、ナオとたわいのない話をしながら帰り、タバコ屋「いっぷく」の前で別れた。


ナオと別れた後、いつも5分も歩けば家に着く。


今日はなんとなく気分が上がっているからだろうか。


無意識に歩くスピードが速くなっていたのか、いつもより早く家に着いた気がする。


いつも通り、玄関のドアノブに手をかけて、回す前に大きく深呼吸する。


大丈夫。


大丈夫。


そう言い聞かせて、ルナは玄関のドアを開けると

「ただいま!」

と明るく挨拶した。


洗面所で手を洗い、うがいをして、お母さんが料理をしている台所へと向かった。


看護師のお母さんは昨日から夜勤で、ルナが学校に行っている間に職場から帰宅していた。


「お母さん、ただいま!」


お母さんは、コクンと本当に小さくうなずいただけで、返事をせず、ルナの顔も見ず、まな板の上のニンジンを黙って切っていた。


「あのね、お母さん、今日学校でとっても嬉しいことがあったんだよ。あんまり仲良くなかった子と、ちょっと、っていうかだいぶ仲良くなれたんだよ。セイラっていう子なんだけどね、6年生で初めて同じクラスになった子でね、すごく可愛くてモデルみたいに身長も高くて、それで」


「ルナ」


お母さんの冷たい声が、ルナの話をさえぎった。


「......なに?」


「おつかい、お願い。はい、財布とメモ」


お母さんはルナの話なんか心底どうでもいいといった感じで、おつかい用の財布と品目が書かれたメモ用紙、そして買い物バッグをルナに押しつけるように渡した。


「......わかった」


「あとさ、頼んでもないのに勝手にベラベラ話し出すのやめろ。ストレスやねん、あんたの声。こっちは夜勤明けで疲れてるんやぞ」


お母さんは吐き捨てるように言うと、また野菜を切りはじめた。


「......ごめんなさい」


ルナは、お母さんに聞こえているか聞こえていないか分からないくらい、か細い声で、つぶやいた。


包丁で野菜を切る音が、部屋中に冷たく響いていた。


ルナは背負ったままだったランドセルを下ろすと、財布とメモを入れた買い物バッグを持って、台所から逃げるように玄関へと向かった。


靴を履き、ドアノブに手をかけてゆっくり回し、外へ出た。


大きく深呼吸すると、気持ちが落ち着いた。


正確には、深呼吸したから気持ちが落ち着いたんじゃなくて、家の外に出たから気持ちが落ち着いた。


それはルナには分かっていたが、いつも気付いていないふりをしている。


一番気持ちが落ち着く場所であるはずの家が、ルナの気持ちをしんどくさせてしまって、家を出ると気持ちが落ち着く、というのはルナにとって悲しいことだから。


そしてなにより、そんなことを思ってしまうのは、お母さんに申し訳ない気がするから。


『ルナって、ほんと空気読めない子。だから嫌われるんだよね。変わってるし』


図工室で宮野リアに言われた言葉が、フラッシュバックする。


お母さんは、私のこと嫌いなのかな―。


ルナはふと思った。


そして、突然そんなことを思う自分に驚いた。


これまで、どれだけお母さんにひどいことを言われたり、ひどい態度を取られたりしても、嫌われていると思ったことはなかった。


親が自分の子どもを嫌うはずがない、だから絶対お母さんには嫌われてない、って信じることができていたのに。


なぜ急に、こんなこと思ったんだろう―。


変わっててもいい。


嫌われてもいい。


自分を好きになって、自分らしく生きることにしたから。


そう決意したばかりだけど、大好きな大好きなお母さんに嫌われちゃうのは、なんだかすごく、言葉で言い表せられないほどに悲しい。


ルナは、とぼとぼとスーパーへ向かった。


しばらく歩いていると、道の途中で、少し先に見覚えのある背中が目に映った。


もしかして―。


ルナは走った。


近づくにつれ、それは確信に変わった。


「ナオちゃん!ナオちゃん!」


ルナは叫びながら、必死でナオを追いかけた。


「あ、ルナちゃん」


ナオは振り向くと、いつも通り穏やかに笑って、小さく手を振った。


ナオに追いついた瞬間―。


ルナは、振り向いたナオに正面から抱きついた。


そしてナオの胸に顔をうずめて、声をあげて泣いた。


「どうしたの?大丈夫?」


ナオは突然の出来事にびっくりしている様子だったが、声や表情は依然として優しかった。


「ナオちゃん、私......。もう、お家に帰りたくない。ずーっとずーっと、ナオちゃんと一緒にいたい」


ルナは泣きながら言った。


「なにかあった?一緒に、公園とか行く?」


「行きたい。でも、早く帰ってこないと、お母さんにまた怒られちゃうから......。おつかい、ついてきてほしい、レジ終わるまで......。いい?」


「うん」


ナオは優しい笑顔でうなずいた。


2人は隣合わせで歩き出した。


ルナは、ナオの手を握った。


ナオも握り返した。


ナオの手は、ナオの優しさのように、とても温かかった。


ナオちゃんが彼氏でよかった。


私は、強くそう思った。


ナオちゃんと出会えてよかった。


心から、本当に本当に、私はそう思ったんだ。

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