第11話

ニンジン、トマト、バナナ、納豆、麦茶パック、台拭き。


お母さんから渡された、おつかいメモに書かれた物は以上だ。


大丈夫。


ちゃんと全部買った。


でもどこか不安で、ルナは何度も買い物バッグを確認した。


失敗は許されない。


3回くらい買い物バッグの中身とおつかいメモを交互に見て確認し、ルナはようやくスーパーマーケットを出て家へ向かった。


歩いて10分もしないうちに、家に着いた。


玄関のドアノブに手をかけて、回す前に大きく深呼吸する。


いつからだろう、こんなことをするようになったのは。


ルナはいつの間にか、帰宅するたびに深呼吸をして気持ちを落ち着かせてからでないと、家に入れなくなっていた。


お母さんが家にいるときは、特に。


大丈夫。


大丈夫。


そう言い聞かせて、ルナは玄関のドアを開けると

「ただいま!」

と明るく挨拶した。


「遅かったやん。また、寄り道でもしてたんちゃうか」


お母さんの不機嫌で冷たい声に、ルナは身をすくめた。


いつものことだ。


「おかえり」の返事はない。


「寄り道なんかしてないよ。はい、これ」


ルナは精一杯の明るい声を出して、買い物バッグと財布をお母さんに手渡した。


「ほんま、たったこれだけのモノ買うのに、どんだけ時間かかっとんねん」


お母さんはぶつぶつ言いながら、ルナの手からひったくるようにバッグと財布を受け取った。


「そうや、さっき東川先生から電話あってんけど」


ルナはドキッとした。


「あんた、吉成ナオくんって子に、服脱げとか意味分からんこと言ったり、ランドセル投げたりしたらしいな。聞いたことない名前やと思ったら、転校生なんやって?せっかく転校してきたのに、お前みたいなおかしい奴のせいで、嫌な想いして登校拒否とかなったらどうするつもりやねん。謝りに行くのは私なんやからな!」


ルナは何も言えず、ただうなだれていた。


''お前みたいなおかしい奴''という言葉が、頭の中でガンガン鳴り響いて、頭が痛い。


「ほんま、マリンちゃんのことでちょっとは反省したかと思ったけど、あんたほんま学習能力ないんやな。どんだけ私に迷惑かけたら気が済むねん。マリンちゃんも、あんたが変なことしてなければ、今でも優鈴小学校で......」


「やめて!」


黙っていたルナだが、マリンの名前を聞いて、思わず叫んだ。


「マリンちゃんの話はしないでよ」


「急にデカい声出すなよ、うっさいなあ」


お母さんはそれ以上、マリンの話はしなかった。


代わりに、

「いつまで私の視界におるつもりよ。はよ部屋上がって、宿題してこい!」

とルナを一喝した。


ルナは慌てて、2階の自分の部屋へと駆け込み、ドアを閉めた。


''マリンちゃんみたいに勉強もスポーツもできて、可愛くて優しい子が私の子どもやったらよかったわ''


部屋に1人きりになると、いつだったか、お母さんに言われた言葉がルナの頭の中でフラッシュバックした。


いつ、どういうシチュエーションで、なぜお母さんにそんなことを言われたのかは全く覚えていない。


ただ、ルナが家でなにかしんどい想いをする度に、お母さんの声で、この言葉が頭の中で鳴り響き、余計にルナを苦しめるのだった。


ルナの母親であるリミコは、ルナが小学2年生くらいまではいつも笑顔を絶やさない、優しい母親だった。


一人っ子のルナを溺愛し、ルナが「欲しい」と言ったものは、おもちゃでもおやつでも文房具でもなんでも買い与えた。


状況が変化したのは、ルナの両親が離婚してからだった。


ルナの父親は、妻であるリミコに頻繁に暴力を振るっていた。


リミコは自分への暴力は黙って耐えていた。


だが、ルナが小学3年生だったある夜、酔っ払った父親がルナに向かってテレビのリモコンを投げつけ、それがルナの細い足に命中したとき、痛みで泣き叫ぶ娘の姿を見て、離婚を決意したのだった。


親権を取ったリミコは、看護師として勤務しながら女手一つで懸命にルナを育てていた。


しかし、仕事と家事の両立による疲れからなのか、離婚したことによるストレスからなのか、それとも他になにか理由があるのか、だんだんとルナに冷たく当たるようになった。


そんなお母さんの冷たい態度はどんどんエスカレートしていき、現在は挨拶しても返してくれることはほぼなく、ルナからお母さんになにか話しかけても、いつも面倒臭そうに適当に返事し、無視することもしばしばだ。


ルナの行動や言動に怒ったときは、暴力こそ振わないものの、感情に任せて怒鳴ったり、「おかしな奴」だの「人間のクズ」だの、ルナの人間性を否定するような言葉を平気でぶつけてくる。


両親が離婚してから、ルナがお母さんの笑顔を見た記憶は、一度もなかった。


ルナはそんなお母さんの態度に傷つきながらも、お母さんが冷たいのは、ルナ自身になにか問題があるからではないかと考えていた。


常にお母さんの機嫌を損ねないように気を遣う毎日だったが、全く上手くいかず、お母さんは常に不機嫌だった。


ルナにとって、お母さんがいる限り、家は常に緊張感がつきまとう、落ち着くことができない場所だった。


看護師という仕事は夜勤が多く、ルナが学校から帰ってくる時間帯はお母さんは家にいることが多かった。


しかし、学校にはお母さんはいない。


終始、気を遣わなければならないような相手もいない。


先生は怒ったら怖いけど、普段はとても優しくて、挨拶したら笑顔で返してくれるし、ルナの話を一生懸命聞いてくれる。


友達は少ないけど、ナオという、自分を受け入れてくれる存在がいる。


学校では、ありのままの自分で過ごすことができる。


お母さんと上手くいっていないことを、先生やナオに相談しようか―。


そんなことも何回か考えたが、相談したことがもしお母さんにバレたら、お母さんは絶対怒るし、そしてなにより悲しむに決まっている。


それが分かっているから、ルナは決して家庭での生き辛さを誰にも相談することなく、一人で抱え込んで生きていたのだった。

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