第9話
「この服、ナオに買ってきたから、明日から学校で着ていったらいいよ。ブランド物だから、結構高かったんだぞ」
ある日曜日の夕方、唐突にナオのお父さんはそう言って、新品のトレーナーをナオに差し出した。
それは、’’ソル'’という海外ブランドのものだった。
スペイン語で「太陽」を意味するらしい、そのブランドのトレーナーは、薄い水色で、男女どちらが着ても違和感がなさそうな、中性的なデザインだった。
「ありがとう」
ナオは一言礼を言うと、それを受け取った。
本音を言えば、ナオは洋服にはあまり興味がなく、ブランド物の服を貰ってもそれほど嬉しいとは思わなかった。
「俺もブランドとかあんまり詳しくないんだけどさ。これは一目見て、ナオに似合いそうだなと思ったんだよ」
そう言うお父さんはとても満足げな表情を浮かべていた。
「確かに、ナオって昔から水色が似合うのよね」
お母さんも大きくうなずく。
2人からそう言われると、服に興味のないナオも、明日これを着て学校に行くのが少し楽しみになってきた。
翌朝、ナオは目を覚ますと、ソルの水色のトレーナーに袖を通した。
確かに、似合っている気がする。
リビングに降りると、お父さんはすでに仕事へ出掛けていた。
お母さんは水色のトレーナーを着たナオを見るなり
「やっぱりナオにぴったり。お父さんって意外とセンスあるんだね」
と満面の笑みだ。
歯を磨いて朝ごはんを食べ、靴を履いて「いってきます」と挨拶をして玄関を出た。
ここ数日は悪天候が続いていたが、今日は久しぶりに快晴だ。
雲ひとつない青空が、新しいトレーナーのデビューをお祝いしているようだった。
校門が見えてきた。
無意識に早足になっていたのだろうか、いつもより早く着いた気がする。
校門をくぐり、6年生の教室がある4階まで階段を上がった。
教室に入り、ルナの席の隣にある自分の机へと向かう。
ルナはいつものように、先に教室に来ていて、ランドセルの中身を机の引き出しに入れていた。
「ナオちゃん、おはよう!」
いつものルナなら、ナオに気付くとすぐに、元気よく挨拶してくれる。
だが、今日はナオの姿を見ても黙っている。
というより、ナオを見て固まっているようだった。
「おはよう」
ナオのほうから声をかけても、反応はない。
数秒ほど沈黙が続いた後、やっとルナが口を開いた。
「その服......。どうしたの?」
今まで聞いたことがないほど、暗く重いトーンの声だった。
「ああ、これ、昨日お父さんが......」
途中でルナが遮った。
「やめて」
「え?」
「その服、やめて!やめて!着ないで!その服、着ないで!脱いでよー!!!」
ルナは激しく叫んだ。
呆気に取られているナオに、ルナは
「ギャー!!」
と甲高い声で叫びながら、ルナの机の上に置いていたランドセルごと、ナオの新しいトレーナーに向かって投げつけた。
その瞬間。
「ルナ、やめろ!」
いつの間にか教室に入ってきていた東川先生が、強い口調でルナを怒鳴った。
その声を聞いて、ルナはますます激しく、鼓膜が破れるかと思うほど大きい声で叫びながら、ナオの机の脚を蹴りつけた。
ルナの足の指が折れてしまいそうなくらい激しく、思いっきり、何度も。
そんなルナを、体格の良い東川先生は後ろから羽交い締めにして、この前と同じように6年3組の教室から無理矢理追い出し、別室へと連れて行った。
教室からルナと東川先生が離れるにつれ、だんだんとルナの叫び声が遠くなる。
他のクラスメイトたちは、それほど動揺する気配もなく、教室から2人が出ていったのを見届けると、また朝のおしゃべりを始めた。
あまりに突然のことに、しばらく身動きがとれなかったナオだが、ようやく我に返り、水色のトレーナーを脱いだ。
幸い、下にはもう1枚長袖を着ていたため、寒さは感じなかった。
もうこのトレーナー、学校には着ていけないな―。
ナオは軽く溜息をつきながらトレーナーを畳むと、黙ってランドセルの中にしまった。
8時15分。
登校時間終了のチャイムが鳴ると、東川先生が不在のまま、日番の2人が黒板の前に立ち、朝の会が始まった。
先生とルナは、1時間目が始まる少し前、教室に戻ってきた。
ルナは、うなだれた様子でナオの隣に来ると
「ごめんなさい」
と目に涙を浮かべながら、か細い声でつぶやき、自分の席に座った。
「ナオ、放課後に、ちょっと職員室に来てくれるか」
ナオの席に近づいた東川先生は、小声でそう声をかけると、教壇に戻り、教科書を開いて授業の準備を始めた。
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