第36話 忘れないで
ドアフォンを押すと、思っていたよりも勢いよくドアが開いて、持っていたコーヒーをこぼしそうになった。
「え? コーヒー? ごめん」
わたしの持っていた袋を見て、眞白さんは慌てて、わたしの服を見た。
「大丈夫です。ちゃんと蓋をして来ましたからこぼれてませんよ。袋にも入ってますし」
相変わらず何もない部屋。
ここで一日、眞白さんは何をして、何を考えて過ごしていたんだろう、と考えてしまう。
それでも、お酒は飲んでいないようだった。
眞白さんはタバコも吸わない。
「クリーニング出してなかった」
買ってきたコーヒーを袋から出してテーブルの上に置いている時だった。
「喪服。志保理の……葬式に着て行った後、そのまま放置してた」
「出した方がいいと思いますよ」
眞白さんはハンガーにかかった喪服の前にじっと立っていた。
「もう、忘れないといけないんだよな……」
わたしに言ったのか、独り言だったのか分からなかったけれど、眞白さんがぽつりと言った。
「無理に、忘れようなんて思わないでください。わたしの母は、わたしが高2の時にこの世を去りましたけど、わたしも父も、母のことを忘れようと思ったことは一度もありません。時々思い出す母の笑った顔も、話した言葉も、思い出も、忘れたくなんてありません」
眞白さんは黙っていた。
「志保理さんとの大切な思い出も、好きな気持ちも、眞白さんは全部と一緒に生きてください。眞白さんの過去を否定しないでください」
「……時々、未来ちゃんはオレより年上なんかじゃないかと思ってしまう」
「時々、眞白さんのこと、高校生の男の子くらいに思ってしまいます」
「それだと未来ちゃんとそんなに変わらない年ってこと?」
「いいえ、わたしより随分年下です」
眞白さんは前を向き始めている。
わたしがそばにいたくても、もう必要じゃなくなる。
嬉しいのに悲しい。
ここに来るのも、本当にわたしのわがままでしかなくなってしまう……
「コーヒーぬるい」
「コンビニで買って、ここまで歩いて来たから。眞白さんの家、レンジとかないから温め直せないし」
「未来ちゃんはコーヒー好きなの?」
「好きです。多分父の影響です。家にエスプレッソマシンがあっていつも飲んでるから」
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