第8話 坂下麻由美

「ねぇ、ちょっと、ねぇねぇ」


日曜日の早朝、駅前を歩いていると女の人に声をかけられて、振り向くと知らない人が立っていたので、見入ってしまった。


「わかんない? 東奈消防署で会った坂下麻由美だけど」


全然わからなかった。


消防署で会った坂下さんは、ほとんどノーメイクで、髪の毛もひとつに結んでいるだけだった。

目の前にいる坂下さんは、フルメイクで、おろした髪はゆるいウェーブがかかっている。そして少し派手だった。


「ごめんなさい。わからなくて……この前はありがとうございました。昨日消防署の方に寄ってお借りしていたものを眞白さんにお渡ししてきました」


わたしは頭を下げた。


「うん、そんなことより、暇?」

「え? はい」

「ちょっと付き合ってよ。お昼ご馳走するからさ」

「何でしょう?」

「ついて来て」


言われるがまま坂下さんについて行く。



連れて行かれたタウンレコードの入り口の前には、大勢の人が列をなしていた。


「並ぶよ!」

「は、はい」


何の列かもわからないまま、一緒に並んだ。


「そう言えば、名前聞いてない!」

「日向未来です」

「連絡先交換しよ。いい?」

「はい」


なんだか圧倒されてしまう。


「なんでこんな朝早くに駅前にいたの?」


それはわたしも坂下さんに聞きたい。


「父から、スマホを忘れたって公衆電話から連絡があって、届けに来てたんです」

「そうなんだ。じゃあわたし未来ちゃんのお父さんに感謝だね!」

「坂下さんはどうして朝早くに駅前にいたですか? これ何に並んでるんでしょう?」

「わたしは、Leviの3thアルバム発売記念の、タウンレコード実店舗限定・先着300名のポスターが欲しくて並んでるの。あ、未来ちゃんもね」

「フアンなんですか?」

「そう! 大フアン!」

「でもそれって、アルバム購入者限定とかなんじゃないですか?」

「だから買うんだよ。あ、これ、お金渡しとくからこれで買ってね」

「それだとアルバム2枚買うことになっちゃいますけど?」

「2枚買うよ。1枚は保存用、もう1枚は自宅用。ネット限定特典のも買ったから、もう1枚は署に置いておく」

「そう、なんですね……」




3時間ちょっと並んで、目的の物が手に入った坂下さんはご機嫌で、高そうなイタリアンのお店に連れて行ってくれた。


「ワインも飲む?」

「いえ、お酒は苦手なんで」

「そっか、残念。一人で飲んじゃっていい?」

「はい、どうぞ」


坂下さんは一番高いランチのコースを頼んだ。


「美味しいもの食べようね!」

「本当にいんですか?」

「いいよ。未来ちゃんのおかげで保存用のポスターも手に入ったから!」

「ありがとうございます。でもなんだか意外です」

「そう? わたし筋肉苦手なんだよね。消防署にももっと華奢な感じの子がいたらいいのに。細くてすっとした人入らないかなぁ」

「そうなんですね」


そんな人は消防士にはなれないと思うから、夢の話なんだよね。


「また並ぶ時誘っていい? もちろんお礼はするから!」

「はい」

「もうさ、わたしのまわりは結婚したりしてて一緒に並んでくれる人がいないのよ。だから昨日もひとりでコンサートに福岡まで行ってたんだ」

「チケットとるのって大変なんじゃないですか?」

「そうなの。だから署のみんなにファンクラブに入ってもらってる。もちろん会費はわたし持ち。で、チケットの抽選になったらみんなのIDで申し込むの」

「好きなんですね……」

「今回のコンサートは眞白のIDで当たったんだ。前回も眞白ので当たったから、あいつ運がいい」



「お待たせいたしました。前菜でございます」


料理の説明をされたけれど、聞いても全然わからなかった……


眞白さんの話もそこで終わってしまった。


でも、坂下さんが特に眞白さんを好きじゃないことはわかった。

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