第一話 二つ目の誕生日
五感を失ったせいか、身体的な苦痛を感じられない。
そのせいか恐怖も感じず、しばらくは冷静でいられた。
何が起こっているのか、どうしてこんなことになっているのか、自分の意識がまだあるのかどうかさえも分からない。
気を失っているだけで生きていると考えていたが、既に命を落としている可能性が、頭に浮かんだ。
今、自分が置かれている状況が死というものだと、そう考えてしまった。
暗闇と静寂が、その恐怖を増幅させていた。
何も見えない、何も聞こえない、何も感じられないこの状況から、一刻も早く抜け出したい。
必死にもがいて、自分の存在を確かめようとした。
それが冷や汗となって、額を濡らした。
温かい、濡れた感触が、五感を取り戻し始めたことに気づかせてくれた。
まだ感覚が鈍い手足を動かそうともがいていると、微かだが女性と男性の声が聞こえてくる。
彼らが何を言っているのかは分からない。
おそらく違う国の言語だが、嗚咽交じりのすすり泣く声が響いていた。
徐々に視界もクリアになってきて、見たことのない三人の大人たちの姿が映り込んだ。
大泣きする男、そいつと手を握り、一緒に涙を流してベッドに横たわる女性。
なにやら重たい空気だが、三人目の女性、この雰囲気に全然合っていない。
最後の一人は、獣の耳を頭から生やして、ふさふさの尻尾まで装備している。
けど、彼女は沈んだ面持ちでベッドの女性の顔を見つめている。
恰好はふざけているが、一応真剣みたいだ。
ベッドで横になっている女性はというと、涙を流しながら何かを大事そうに抱きかかえていた。
恐る恐る近づき、女性が抱きかかえる何かを、覗き込んだ。
抱きかかえていたのは、息をしていない小さな赤ちゃんだった。
そうか、やっとこの重い雰囲気の正体が分かった。
「あの…」
反射的に声を上げたが、言語が違うことを思い出す。
何を言っても通じない。
それに、関係ない俺が、何を言ってもどうにもならない。
そう思い、彼らから離れ部屋を出ようとした。
ドアノブに手をかけた瞬間、ふと何かがおかしいことに気づく。
言葉が通じないにしても、この距離なら一瞬こっちを気にして、振り返ってもいいはずだ。
その違和感が気持ち悪く、再び彼らのそばに近寄る。
あえて足音を立てるように、堂々と。
やはり、俺に気づく者は誰一人いない。
違和感が恐怖に、少しずつ変化していく。
恐怖を取り払おうと、男の肩に手を伸ばす。
しかし、手は肩をすり抜け、そのまま床へと倒れ込んでしまった。
知らない床と顔を突き合わせ、今の自分の状況が異様なことに気づいた。
誰も俺のことが見えていない。
それに、触れる事が出来ないのは何故だ?
心臓が締め付けられ、気管が細くなる感覚に襲われた。
息をするだけで胸が痛い。
気を失わないよう胸を押さえ、再度周りの状況を確認した。
こんな状況でも、あの三人は俺の存在を認識している様子はなかった。
もう一度触れようともしたが、やはり結果は変わらない。
けど、三人のひどく落ち込む様子を再び目にすると、少しだけ冷静さが戻ってくる。
他人の方が取り乱していると、案外自分は冷静になるらしい。
冷静になれば視野も広がり、今いる部屋の様子が分かるようになった。
窓からは月が良く見えていて、部屋の中を確認出来る、十分な月明かりが差し込んでいた。
部屋の中には衣装ケースやテーブル、椅子のほかに全身を写せる大きさの鏡が置いてある。
鏡に映る俺は、見慣れた姿ではなく、黒いシルエットだけが映されていた。
顔も服も何も映らなかったが、右手部分に小さな鉄製の箱が握られている。
あの指輪が入っていた箱だ。
「そうだ!これを開けたからこんなことに......。でも、どうして?」
この際、自分の姿なんかどうでもよくなっていた。
それよりも、この箱の方に注意がいく。
曖昧だった記憶の最後、俺はこの箱を開けていたはずだ。
あの時と同様、もう一度箱を開ければ何かが分かる。
そんな気がした。
自然と力が入った手で、蓋を掴む。
何かが起きますように、と願い、ゆっくりと蓋を外していく。
「何も起きない......」
俺の願いは聞き入れてもらえなかったようだ。
手の力が抜けると同時に、全身からも力が抜けていた。
かくつく膝を支えようとした時、手に持つ箱の中身が目に入った。
指輪だ。
希望は消えていなかった。
蓋を外した時の消失感を、すぐに頭の隅っこにしまった。
新しい希望を掴むため、俺は指輪に手を伸ばした。
「さ、触れない!??」
男の肩を触ろうとした時と同じで、指輪には全く触れなかった。
頼みの綱だった指輪の輪郭がボケ始め、徐々に消えていく。
触れなかったことには驚いたが、この不可思議な出来事で進展がありそうだ。
同時に、何とも言えない気持ち悪さが俺を襲う。
だが、あの時経験したものとは少しだけ違った。
誰かの冷たい視線を感じる。
ゾクゾクする視線のせいで、呼吸が乱れているのが自分でもわかる。
心臓の動きが早まり、頭がふらつく。
視線の正体はあの、三人がいる方から向けられている。
ゆっくり、その正体の方へ振り向く。
不思議なことに誰とも目が合わなかった。
「俺の勘違いか?」
一人一人の目を確認するが、誰もこちらを見てはいなかった。
全員、赤ちゃんの方を見ていた。
つられて、赤ちゃんへと目を向ける。
目を持つ人間は、もう一人いた。
俺は、赤ちゃんと目が合った。
「っ!」
命を落としたと思いっていた赤ちゃんが、目を見開きこちらを覗き込んでいた。
あまりの奇妙さ、不気味さに驚き、目を閉じてしまった。
いや、そうじゃない。
何かに、いや、誰かに強制的に閉じられたような感覚がした。
目を開こうとしても全く開かない。
「また!?また、あの暗闇に行くのか!?」
次第に呼吸もしずらくなってきた。
「夢、なら……早く醒めろ……そもそも、何でこんな場所に……いやだ……い……いやだ!」
全力で声を出したその時、鼓膜を針で刺されたような、甲高い鳴き声が聞こえた。
同時に、閉ざされていた目がゆっくりと開いた。
徐々に見えてくる目の前の光景に、俺は驚きを隠せなかった。
一瞬夢から覚め、心配そうに見下ろしているのは両親かと思った。
でも父さんは既に亡くなっているし、母がこんな顔をすることは考えられない。
目の前にいる夫婦は命を落とした赤ちゃんの両親だった。
どうやら俺のことを、認識できるようになったみたいだ。
すり抜けていた体も元に戻っているようで、父親らしき男が、頭上の高さまで俺を軽々と持ち上げていた。
(あれ?俺ってそんなに軽かったっけ?)
そんな疑問の答えはすぐに判明した。
視界に映った、自分の腕が、赤ちゃんのように小さく変化していた。
(もしかして俺、赤ちゃんになちゃったのか?)
「あうーー」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます