第0話—② 変えようのない過去


 その日は、すごく蒸し暑い日だったことを覚えている。


 空は青く晴れているが、湿度が高く、汗が体にまとわりつく。時折吹く風は、空気をさらにジメジメと重いものにした。


「……暑いなあ」

「そうですねぇ……」 

「わん?」


 いつもはきっちりとしているコルフも、どこか参ってしまっているように見えた。姿勢が少しだけ崩れていたように感じたのである。


 ぼくも暑すぎて、頭が少しぼーっとする。フォコだけは暑さなんてへっちゃらさ、とでも言わんばかりの顔をしていた。


「そんなにもふもふなのに暑くないのかな」

「そうですねぇ、これも聖なる力の加護なのでしょうか?」

「わん!」


 高温多湿なんてどこ吹く風といった様子で、元気に駆け回るフォコ。今日はフォコと一緒に走る気力が湧かなかった。


 バサ! バサ! バサ! バサッ!!!!


「わっ、すごい数」

「本当ですね、どうしたのでしょうか」


 ぼくらの屋敷のほうから、たくさんの鳥が飛んできた。まるで何かから逃げるような、そんな必死な様子で。


「——ぐるるるる」

「えっ?」


 フォコが見たことがないほど、警戒した様子で唸っている。全身の毛が逆立ち、尻尾の先はまるで燃え盛る炎のようだった。


「何か嫌な予感がしますね……」

「うん……」


 とりあえず気持ちのいいものではない。何かどんよりとした空気が広がっているのだ。


「……今日はもう帰りましょうか」

「そうだね、それじゃあフォコ。またね」


 ぼくはそう言って立ち去ろうとした。


 しかし、フォコがそばを離れてくれない。道を塞ぐように、ぼくの視界を遮っている。


「フォコ? どうかしたの?」

「ぐるるるる……」

「大丈夫、また明日も来るから。ねっ」


 フォコを安心させるために、背中を撫でながら、できるだけ優しい声をだしてなだめる。


「わん……——わおん!」

「えっ、ついてくるの?」


 唸るのをやめてくれたフォコは、ぼくらを先導するように前に出た。


「……? とりあえず入り口まで行きましょうか」

「うん、そうだね」


 コルフの言葉に従って、ぼくは歩き出した。


 今にして思えば、ここでフォコの警告に気づけていれば、違う道を選べたのかもしれない。


 フォコとこの場で、じっとしているのが正解だったのかもしれない。しかし、ぼくは——俺はその選択をすることができなかった。



 ******



「ぎゅううううるるるるぅ!!」


 禍々しい紫を身にまとった大きな芋虫ジャイアントワームたちが、地面を這いずり回っている。


「がぎゃっ! がぎゃっ!」


 下卑た笑い声をあげながら、小さな石斧を振るのは小鬼ゴブリンたち。


「ばばばばばばぁぁぁ !」


 狂ったように口から石を吐き出し、屋敷を汚しながら破壊しているのは石のトカゲストーンリザードたち。


 この世のものとは思えない声。そして、光景。周辺には腐った卵のような悪臭が充満していた。


「あれは……。屋敷が……襲われている……?」


 コルフの言葉にほんの少しだけ冷静さを取り戻す。


 今、目の前で奇声をあげながら暴れまわっているのは、魔物モンスターだ。本で読んだことはあるが、実物を見るのは初めてである。


「がぎゃっ!」


 突然目の前にあらわれた一匹のゴブリン。


 その不潔で不快な生物は、ぼくを標的にしているようだった。石斧を自身の頭より高く掲げて、こちらに向かって走ってくる。


「うっ……、わっ……」


 体がいうことを聞かない。逃げなきゃいけないと分かっているのに、まるで石にでもなってしまったかのように手足が動かない。


 目の前の醜悪な魔物が、筆舌に尽くしがたい恐怖を撒き散らしているのだ。


「坊っちゃま!」


 ぼくに覆いかぶさるかのように、コルフが抱きついてきた。


 だめだ、ぼくの代わりにコルフが傷つくなんて。そう思っているのに、体は依然として硬直している。


 情けないことに、悲鳴すらあげられない。


「がうっ!」


 ぼっ! ぼわんっ!


 そんなときだった。目の前で赤い花が咲いた。


 いや、違う。炎だ。メラメラと燃え盛るそれは、ゴブリンを燃料として煌めいていた。


「…………。……フォコ……なの?」


「わおん!」


 コルフによって視界がふさがれていたため、はっきりとは見えなかったが、フォコが吠えた瞬間、小鬼が燃えたのだ。


「す、すごいや! フォコ!」


「わぉーん!」


 興奮するぼくと誇らしげなフォコ。

 

 屋敷は今もモンスターたちに襲われている。


 フォコの力があれば、どうにか追い払うことができるかもしれない。ぼくは覆いかぶさっているコルフを払いのけて、走り出す。


「ダメです! 坊っちゃま! 行っては——」


 コルフの言葉は耳に入ってはいた。だが、興奮している体を抑えられない。


 ぼくはフォコに乗って、魔物の群れに突っ込んでいったのだった。


「がるるぅぅ! わん! わん! わん!」


 ぼっ! ぼっ! ぼっ! 


 フォコが放つ火の玉が、ジャイアントワームを消し炭に、ゴブリンを黒焦げに、ストーンリザードを丸焼きにする。


「すごい! すごい! フォコすごい!」

「わおん!」


 20以上はいたモンスターたちがあっという間に焼き払われた。


 残るは、目の前のストーンリザード一匹だけ。


 石のような灰色の鱗を持ち、人間の子供と同じくらいのサイズを誇るトカゲも、フォコの炎に耐えきることはできない。


「がうっ!」


 火球が炸裂し、ストーンリザードが苦しそうにのたうちまわる。


 しかし、それも数十秒のこと。ぴたりと動かなくなり、静かになった。


「やった! フォコすごいや!」

「わおん!」


 ぼくはフォコの上で、めいっぱいはしゃいだ。周りが見えなくなるほどに。


 だから、気づけなかったのだ。


 ——ばしゅんっ!


 音が聞こえた上を見上げると、何かがこちらに迫ってくる。


 飛んできたのは、三本の石槍。槍と呼ぶには無骨すぎるが、細長い石柱がぼくを目掛けて飛んでくる。屋敷の上にストーンリザードが残っていたのだ。


 ダメだ。避けられない。恐怖で目を閉じた瞬間、何かに突き飛ばされた。


 どんっ。フォコの背中から落ちてしまう。


「わん!」


 フォコが火を放ち、屋敷の上のトカゲを退治する。しかし、そんなこと気にする余裕はなかった。


「コルフっっっっ!!!!」


 目の前でコルフが倒れている。


 体を突き刺しているのは、石槍。二本の石柱が彼女を貫いていた。ぼくはそこに全力で駆け寄って行く。


「コルフッ!」


 いつも清潔な彼女の衣装。白を基調としたメイド服が——真っ赤に染まっている。


 ——呪う。自分の無力を。


 ぼくの魔法が攻撃魔法なら、もっと簡単にモンスターたちを殲滅できたかもしれないのに。回復魔法なら、今ここで、コルフの傷を癒してあげられるかもしれないのに。


 なんで、なんで、なんで、なんで。


 ぐるぐると回る言葉。分かっているのだ。悪いのは、ぼくの魔法なんかじゃない。


 コルフの忠告を無視して蛮勇に走ったぼく自身だ。


 コルフが傷ついているのは、ぼくのせいだ。誰かのせいじゃない、自分の責任だ。


「ごめぇん! こるふぅっ! ぼくのせいでぇっ!!」


 涙が止まらない。それなのに、コルフはニコリと笑う。


「良かった……。無事だったのですね。坊ちゃん……」


 悲しみが瞳から溢れてくる。ぼくに泣く資格なんてないのに。とめどなく溢れる水滴を抑えることができない。


 そして、抑えることができないのは、コルフの出血もだった。コルフの倒れている場所に赤い水たまりができている。


「そうだ! アルコの回復魔法なら……」


 屋敷の方を見て、気づいてしまう。


 馬車がない。人の声がしない原因が分かった。そうか、ぼくたちは見捨てられていたのか。


「フォコ! 聖なる力で回復は——」


 言いかけて、やめる。フォコの表情を見てしまったから。


「くぅーん……」


 使えるのならば、とっくに使っているだろう。


「坊ちゃん……、側にいらっしゃいますか?」


 弱々しい声。


「いるよ! ここにいる! だから、死な——」


「……手を繋いでいてくれますか?」


「えっ……」


 驚きはした。それでも、すぐにコルフの手を両手でしっかりと握る。


「ありがとう……。あなたがもっと小さかった頃、私はここに来たのです。いつも不安でいっぱいでした……。ごほっ、ごほっ」


 赤の混じる咳。無理に喋らなくていい、とは言えなかった。すごく大事な事だと思ったから。


「そんなとき、あなたが手を握ってくれたのです。笑ってくれたのです。それだけで、とても心が晴れた……、ごほっ」


 ぼくの手を握りかえす力が、段々と弱くなっていく。


「ありがとう……、坊ちゃん。どうかお幸せに……——」


 握る手から力が失われていく。


「……コルフ? 嘘だよね。コルフ? また明日になったら、おはようございます、って起こしてくれるよね? コルフ……?」


 返事は……なかった。名前を呼んでもらうことは——もう。


「うわぁ————!!!!」


 ずっと、ずっと泣いていた。


 とある冒険者が助けに来てくれるまでずっと。


 ——側にいてくれたフォコの温もりと、少しずつ冷たくなっていったコルフの温もりを、俺は一生涯忘れる事はない。


 10年経った今も、ずっと覚えている。

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