#9 もっと崇めろ

 明日は楽と出かける日なのに。

 どうして、今なの。なんで、うまくいかないの……?

 私の心が、壊れてしまう。






 楽と出かける約束の日まで10日。

 今日彼から届いたチャットには、当日の持ち物やスケジュールが結構がっつり書かれていた。私は彼がここまでまめな人だとは思っておらず、それはもう感謝した。

 自分で何かものを用意するのがあまり得意なほうではないし、忘れ物もしてしまう事が多い。なんだか、私の特徴というか特性が見抜かれている感じがあり、多少驚かざるをえなかった。まあ別段隠していたわけでもないし、困るようなことじゃない。


 私は自室のベッドに横になって、楽が送ってくれたメモに自分で加筆する。

 一頻り終えたところで、一応それが本当に必要か精査をしてみる。これはいる。うーん、こっちは別にいらないかな。

 なんだか考えること多すぎてイライラしてきた。楽と遊びに行くことだけを考えることが出来るのなら、どれだけ楽だろうか。


「渚ー。お風呂入っちゃいなー」

「はーい」


 お母さんにそう言われ、私は階段を降りて風呂場へ向かう。服を脱ぎ、髪の毛と身体を洗い流す。湯船につかりながらいろいろなことを考える。


 そういえば、楽と遊びに行くときのホテルのお風呂は、大浴場と書いてあった。こじんまりとしたところよりも広々としていた方が私は好きだ。

 プールも広々としてたらいいなあ。でも夏だし、絶対人多いよね……。楽とはぐれたら合流できる自信がない。まあずっと手繋いでいればいいか。楽なら安心して私を預けられる。彼もそんな風に考えてくれてたら嬉しいな……。

 

 それにしても、本当に今更だが、私相当すごいことに楽を付き合わせてしまっている気がする。いくら私が彼を想っていたとしても、彼が私をどう想っているかなんて分からないのだ。もし彼が私と同じ気持ちでいてくれたら、どれだけ嬉しいだろうか。それだけで私は舞い上がる。


 しかし今、ある問題が生じてきている。これがまた厄介なやつなんだよね。

 なんで今更、戻ってきたんだろうか。は。戻ってきたとき、さすがに嘘だろうと思っていたのに。しかも連れ戻したのがろずなことが少し意外だった。

 あやつは私の味方なんじゃないの? いやどっちかというと私『たち』の味方、といったほうがいいか。彼の交友関係に私が介入することなんてできないし、するつもりもないから別にいいんだけど。


 私は心が広いから今回も許してあげた。今までに2回大きな事で謝られたし許してきた。小さいことを含めればもっと多い。それぐらい私はあいつに甘い。だけど、全部無に還っている。なのに今回も許してあげてる私まじ神。もっと崇めろ。


 ……いやいや、どうした私。 頭打ったんか?


 今持っている気持ちが楽に向かいつつあるが、やはり元カレという存在は私の中でかなり大きかった。なにかを期待してしまっている自分がいるのも嫌だ。

 この前きれいに流したはずなのに。


 ああ、頭がおかしくなる……。


「まったく、みつるのやつ……」


 ぼそっと元カレの名前を呟く。今までで一番長く続いたのは、光だった。いろいろ許せないこととかあったし、喧嘩も結構したけれど、楽しかったのは本当だし、なにより幸せだった。

 一度ひとたび目を瞑れば、当時の思い出が目の裏に浮かび上がる。


 ……これだめなやつだ。まだ未練たらたらだよ私。


 目から溢れ出てきたものが頬を伝う。それが涙だと気付いたのは、お風呂から上がった後だった。




 2日後。

 お昼休憩を取っていると、チャットが届いた音がした。スマホの画面を確認すると、そこには光の名前があった。


『今日夜話さない?』


 まあ別に今日なにか予定があるわけではない。何を話したいのか全く検討もつかないが、まあたいした問題じゃない。それよりも、またこいつとの思い出が溢れて、枕を濡らすことは避けたいと思っている。

 ……さすがに大丈夫だと信じたい。というより、大丈夫じゃなければいけない。


 思うところはいろいろあるが、とりあえず私は「いいよ」と返事をした。

 話したいけど、話したくない。そんな矛盾した気持ちを持ちながら午後の仕事をしていたからなのか、あっという間に終業の時間になってしまった。


「お疲れ様ですー」

「お疲れ、渚ちゃん」

「またねー」


 上司と同僚にそう言われ、私はぺこりと頭を下げ、会社を出る。

 車の鍵を開けてエンジンをかける。冷房から出るひんやりした風が私の頬を撫で、体の熱を奪っていく。もう9月だというのに一向に涼しくならない。それどころか、むしろ暑さは増長している。


 ……さっさと帰ろ。


 車を走らせること15分。家に着いた。靴を脱ぎ捨て、風呂場に行きシャワーを浴びる。上の空のままご飯も食べ、私は自室のベッドにダイブした。

 どっと疲れが押し寄せる。今日はこのまま眠ってしまいたい。しかし、光との約束があるため、まだ眠ることは許されない。

 何も考えたくない。それぐらい体も心も疲弊しきっている。


 時が止まってしまえばいいのに。


 そう思うけれど、時の流れに逆らうことなど出来ず、光と話す時間になった。私の携帯がぶるぶると震え、光からの着信を知らせる。


『こんばんわ、渚』

「うん、久しぶり。光」

『その、なんだ。……元気だったか?』

「まあそれなりには。ってか、親戚のおじちゃんかよ」

『う、うるせー。渚と話すのは久しぶりだし、ちょっと緊張してんだよ』


 なにそれ、と私は少し笑いながら言った。気持ちがすっと軽くなる。なんだか、さっきまで考えすぎていたのが急にバカバカしく思えてきた。


『それで、最近どうなん? ……彼氏は、できた?』


 それを聞いたところで光になにか得があるとは思えないけれど、まあ隠すようなことでもない。私は素直に答えることにした。


「特にそういう相手はいないよ。……まあ、少し気になる人はいるけど」

『ほーん……。それってあれ? ろずが言ってたんだけど、ええっと……』

「ろずのやつ、余計なことを……」

『え? なんか言った?』

「なんも言ってないよ」


 危ない危ない。さすがに聞かれると少し気まずい。ろずとは仲が良いし、光の友達でもある。悪口の一つや二つ言ったところで友情がどうこうなるとは思っていないけれど、争いの種は蒔かないほうがいい。


 その後、世間話やら近況報告やらに時間を費やした。

 5分ほど経って、そろそろいいだろうと思い、私は本題へ入ることにした。


「ところで、話って何?」

『あー。……うん』

「何?」

『……』


 なんだか歯切れが悪い。言いにくいことなのかな。ずっとあーだとか、んーだとか言っている。

 さっさと話さないなら電話切りたいんだけど。

 少しばかりいらいらが募る。


「何? 早く言いなよ」


 苛立ちを隠さずそう言い放つ。

 すると、さすがに彼もまずいと思ったのか、よし、という声が聞こえ、続けてこう言った。


『……オレとやり直してくれないかな』

「……は?」


 思わず顔を顰める。

 どういうこと?

 思考が止まる。


『別れてから気付いたんだ。オレには渚が必要なんだって』

「……あの時、光から別れを切り出したし、私の話を聞こうともしなかったのに、よくそんなこと言えるね。何なの? 私のことをいらつかせたいの? それに、……今更遅いよ」

『……そう、だよな。うん、確かにその通りだ。都合のいい話だってことは分かってるし、今更遅いことだってわかってる』


 それを聞いた瞬間、私は電話の向こうにいる相手に対し、これまで我慢してきた感情を爆発させた。


「じゃあなんであの時、私の話も聞かないで一方的に別れを告げたの!? 私がどれだけ光のことが好きだったか、あんたに分かる!? 別れてから私がどんなに辛かったか、あんたに分かる!? ……ッ、どうして今更そんなこと言うのよ! あの時、死ぬことすら頭を過ったぐらい、私は、私は……ッ!」

『……っ』


 思考なんてまとまりきらない。

 涙が勝手に出てきた。


「うぅ……ッ! ぅぐ……」


 続く言葉を発そうとしても、喉のところでつっかえて出てこない。


『ごめん……。本当に、ごめん。渚に辛い思いをさせてしまって。今更遅いなんて事はわかりきっていることだし、あの時のことも悪かったと本気で思ってる。だからオレは、もう間違わないことを誓う。嘘もつかない。約束する』

「そう言って何回も私に嘘をついたじゃん……っ。それに、今更遅いって……、さっきも言った……!」


 光の言葉が真剣なのは伝わる。けれど、どうしろというのだろう。私は何度その言葉を聞いたか分からないし、何度それについての謝罪を受け入れたか分からない。

 今回もその言葉を受け入れることが果たして正しいのか、今の私にはわからない。


 いや、もう既に答えは出ている。でも、もう少し自分の気持ちに言い訳する時間が欲しい。


『本当にごめん、渚。でも信じて欲しい。オレからの最後のお願いだから』


 光はそう言った。だから私は、既に出ている答えを彼に伝えることにした。


「……前向きには考える。でも今はまだ、その段階じゃない。せめて、私が光を信用できるようになるまで待っててほしい。……ちゃんと、私に信じさせて」

『渚……』


 本来だったら許す余地もないし、一般的に見たら、どう考えても受け入れることよりも拒絶した方がいい。でも、私は彼を許すことにした。


 だって、私はまだ、光のことが好きなのだから。


 この気持ちには勝てない。それに、私は彼のことが忘れられなかった。許せないことなんていくらでもあるし、今更遅いことだとも思う。ただそれでも、光という存在が私の中で渦を巻き、しがみついて離れることはなかった。いつまでも、私にまとわりついてきた。


 そうなっていたのは、他ならぬ私の気持ちが原因だ。

 煮え切らない思いを抱えていたのは、彼ではなく私の方だった。


 いつまでも自分に言い訳をして、どうして物事の根本を見ることを避け続けることが出来ると思っているのか。本当に私は、私のことが大嫌いだ。


 光との話が終わり、私はベッドにうつ伏せになった。頭の中にはいろいろなことが詰め込まれすぎていて、何を含んでいるのかすら分からない。


 これからどうしよう。


 枕を濡らさないという目標が達成されるのは、いつになるのだろうか。



 そして、私の決断が無に還ることを、この時の私はまだ知らない。






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