第3話
クマはくつくつと震える笑い声を漏らし、胸元のポケットから折り畳みナイフを取り出す。
「ぶっ殺してやる!このクソアマがあああああ!!」
余裕なく咆哮し、ナイフを軸に突進してくる。
引けた腰、焦点の定まらない目、恐らく一度もナイフ術を学んだことのない手捌き。
近づいてくる足音に対し、四角奈さんはゆっくりとした丁寧な所作で歩み寄る。
二人の距離は三メートル程度。
衝突するのに一秒もかからない。
決着を急いで彼女に向かって伸ばされた腕、その先端にナイフ。
白いエプロンを突く――ほぼ同時、ナイフを持つ片手を四角奈さんはねじり切るように右手で押さえた。
それ以上曲がらない関節を曲げようと持ち上げられる腕、ナイフは手から零れ落ち、クマの視線は下に行く。
その一瞬、右腕を離し、彼女は顔面を蹴り上げた。
綺麗なカウンターキック。
脳が揺れて倒れたクマの腹を四角奈さんは強く踏みつける。
彼の肺の空気が除かれ、僅かにあった意識はそこで消えた――項垂れ白目をむいている。
足をどけて、両手を払う。
くるりとこちらを向き、「お怪我はありませんか?」と声を掛けてきた。
「うん、ない大丈夫」
震えがまだ止まらないのを誤魔化してにへらと笑う。
「そうですか。それは良かったです……お見苦しいところを見せてしまい、申し訳ありませんでした」
急に頭を下げた彼女に驚く。
「なんで謝るの?」
「もっと穏便な解決があったはずです。それにご主人様から目を離さなければこんなことにはなりませんでした……私はメイド失格です」
「そんなことないよ!」
ぴくりと肩を震わせて、少し頭を上げる。
「四角奈さんのおかげで助かったし、このスーパーはよく行くつもりだったから襲われたのが一緒のときで良かった!四角奈さんがいなかったらどうなっていたか分かんないし、本当にありがとう!!」
凍てついた表情は少し融けて、冷ややかな笑みを浮かべていた。
「すごいかっこよかった!いいなあ僕も四角奈さんみたいになりたいよ」
「なれますよ、きっと」
「そこに落ちてるナイフ拾ってくれませんか?」
言われた通りナイフを拾い、彼女に渡す。
「ありがとうございます。二度とこんな振る舞いできないよう、彼らの大事なものをそぎ落とそうと思って」
条件反射で自分の股間をガードしてしまう。
「やりすぎじゃない?四角奈さんのおかげで無事だったわけだし」
「中途半端に懲らしめると、報復があるかもしれませんから。トラウマを植え付けるのが手っ取り早いんです」
気絶した二人を並べてズボンを下ろそうとする彼女にの腕を咄嗟に掴む。
動かない相手を痛めつけるのは違うと思ったから。
ぎろりと睨まれて、一瞬すくむ。
「ほ、ほら僕は四角奈さんのおかげで無事だし!また危ない目に遭ったら同じように助けてもらうし!ね?やめとこう?」
少しの間威圧するように僕の目を見て、軽く溜息をつく。
「しょうがないですね。ご主人様がそこまで言うならそぐのはやめておきましょう」
ナイフの刃の両端を持ち、一息でぐにゃりと曲げる。
いともたやすく使えなくしてしまったそれを放り投げて、僕が持っていた買い物袋を受け取る。
人間技じゃない……。
「それでは行きましょうか。少し、目立ち過ぎました」
「すげえ……」
誰かの感嘆の声が聞こえ、視野は広がる。
気付けば周囲には人だかりが出来ていた。
買い物客が層を作るように半円で僕たちを見物していて、数名は携帯を構え、その様子を撮影している。
倒れる二人を助け起こそうとする人はいない。
店前でこんな騒ぎを起こしていたらそりゃあ目立つ。
「な、なんの騒ぎだ!?」
店長らしき人が店の中から出てきて、驚嘆する。
彼の前には泡を吹き白目をむいて気絶した自分の店のアルバイトと、彼らを倒したと思われる学生とメイドの二人組――
「逃げましょう」
「ええっ!?」
腕を強い力で引かれて、人混みに紛れる。
頭が真っ白になりながら四角奈さんに引きずられないよう走る。
僕の腕を引く力は強いが痛いほどではない――冷たい体温の中に、彼女の思いやりがある気がしてにやにやしてしまう。
大通りから脇道に逸れて、入り組んだ路地をジグザグに進む。
息一つ荒げずトップスピードを維持する四角奈さんのおかげで、だれもついてきていない。
「はあっ、はあっ……ちょっと四角奈さん止まって。僕がもたない」
僕の方がバテてしまい、膝に手をついて肩で息をする。
「体力ないですね」
「ごめん、運動苦手で」
「謝ることではありません」
深く深呼吸。
顔を上げて、辺りを見回す……ここどこ?
似たような一戸建てが整列し、どこも似たような景色で方向感覚を失いそうになる。
入学が決まって間もないため全く見当がつかない。
「四角奈さん、ここどこか分かる?」
「はい。入学前に校内図を頭に入れておいたので」
「すごっ」
「砂糖さんの住所教えて頂けますか?今から向かいます」
これだけは覚えておこうと暗記した住所を彼女に伝えると、すぐによどみなく歩き始めた。
「追手がいるかもしれません。裏道多めでいきますね」
「用心に越したことはないもんね、それでお願いします」
メイドさんの背中を追いかけながら、ブロック塀に囲まれた細い路地を抜けて交通量の少ない通りに出る。
料理が出来て、不良を撃退出来て、地理にも強い四角奈さんはいったい何者なんだろう。
『裏部活、メイド部一年、四角奈凛子。『お掃除』を始めます』
不良に向けて告げた言葉を思い出す。
「あの、裏部活がどうとか言ってたよね。あれどういうこと?」
「……お話しできません」
「そっか、ごめんね。変なこと聞いて」
軽い気持ちで質問したことを後悔した。
乾いた笑いを尻すぼみに浮かべて、勝手に気まずくなる。
「砂糖さんは普通の人ですから。こんなこと知らなくていいんです」
「四角奈さんはいいの?メイドさんってそんなことまでしなくちゃいけないの?」
「問題ありません。私は、普通じゃないので」
その言葉は少し寂しそうで、『自分を大切にしてほしい』という気持ちは突き放された。
踏み込む勇気も話してもらう技術もない自分に嫌気がさす。
「僕って雑談下手だね」
彼女は自虐に少し笑って、「これからですよ」と励ました。
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