6、おばあちゃんの翡翠

「そうや、ゆかりちゃんとこのおばさんから、これを預かってきてるねん」

 紗代ちゃんの言葉に、現実に、アパートの部屋にうちは戻ってきた。

 中学生の頃に、おばあちゃんと歩いた夜とにおいだけが同じまま。

「ゆかりちゃんがなかなか帰ってこぉへんし、宅配で送るんも貴重品やから心配やしって、ゆうてはったわ」

 あおむらさきの天鵞絨が張られた細長い箱を、紗代ちゃんがローテーブルに置いた。

 白檀のほのかな香りが箱に移ってる。おばあちゃんの品や。

「わざわざありがとう。ごめんな、うちのお母さんが妙なこと頼んで」

 開いてみると、なかには翡翠が眠ってた。

 内緒話のように、見せてくれたことのあるネックレスやった。

 ふと、川端康成の『たまゆら』を思いだした。

 あれはたしか亡くなった女性の勾玉を譲りうけた話やった。小説では曲玉と書かれとったけど。あれとおんなじ色。


『青碧色というのか、翠緑色というのか。この世の色ではないように美しく、玉そのものの色が外に逃げんと、うちにこもるという透明度で、曲玉のなかに深い色の世界がある。夢の空であるか、夢の海であるか。あざやかな五月である』


 そんな一節やったように思う。

 おばあちゃんの翡翠は勾玉やのうて、楕円のかたち。微細な水の粒を閉じこめたようなしっとりした翡翠の周囲は、小さなダイヤモンドが二重に配置されている。パヴェという光の石畳に囲まれた、霧のなかの深い森。

 窓からさしこむ光がまだ弱いせいか、あざやかな五月やのうて、やわらかな三月の萌える若葉の色。

「おばあさんの形見なん?」

「うん。どうしてもうちにゆうて、おばあちゃんが生前に決めとったらしいわ。お母さんは、これが似合うようになるには五十歳を越えてからやね、とあきれとったけど」

 金色の鎖の先につけられた翡翠を手にとると『たまゆら』とはちょっとちごて、うちのてのひらにころんとした森があらわれた。

 おばあちゃんとよう一緒に見た、故郷の山の木々の色でもあった。

――この翡翠はなぁ、持ち主のいやなもんを封じこめてくれるんやで。ゆかりは「いやや」ってよう言わへん子ぉやから。これがゆかりの力になってくれるわ。

 いやなもんって、いやな気持やろか。

 翡翠は見れば見るほど、吸いこまれそうな緑をしていた。耳をすませば、石のなかに存在する森の木々が無数の葉を風にざわわと鳴らしているように。

 じぃっと見つめていると、まるで吸いこまれそうな深い森。

 わしや、わしや。

 どこからか、くぐもった音のような声のようなものが聞こえた。

 あおむらさきの天鵞絨ビロード張りの蓋を、おばあちゃんがぱたんと閉じる。

 もう音は聞こえへん。

 ――いまのなに。

 ――うん? どないかした?

 草の葉をとぶ虫の翅音のような、地に潜む虫の声のようなかすれた音が、いつまでも耳に残った。

 ――もうおばあちゃんは、この翡翠を持っとらんでええん?

 ――ええねんで。いまがいちばん幸せやさかいに。

 目を細めると、おばあちゃんの目じりには何本ものしわが寄った。

 おじいちゃんがいてはった頃は、お義母さんもきつい表情をしてたんやけどね。わたしが嫁いできたころは、お義母さんはまだ若かったやろに、眉間にたてじわが寄っとったわ。

 お母さんの言葉が、ふと頭をよぎった。

 おばあちゃんは、着物にも服にも本にもハンカチにも、畳にも壁にもしみついた煙草のにおいをきろとった。

 お父さんは煙草を喫わへん。お母さんもうちも。

 うちが小さい頃はたしかにおばあちゃんの部屋は、くさかった。

 うちはおじいちゃんのことを知らへん。

 仏間の天井近くにかけられたいかめしい白黒の写真。子どものころにおばあちゃんに「あれ、だれなん?」と尋ねたら「さぁ、どなたさんやろね」と首をかしげた。

 いやですよ、お義母さん。そないな冗談ゆうて。物忘れのひどなる歳でもないでしょうに。と笑いながらも顔を青くするお母さんの姿を覚えてる。

 そうか。あれがおじいちゃんなんか。

 せやったらとお母さんに「おじいちゃんって、どんな人やったん」と訊いてみたら、やっぱり首をかしげる。

「煙草を……よう喫うてはって、それで、けむうてけむうて。難儀したわ」

「怖い人やったん」

「どないやろ。煙草を喫うてはったよ」

 ならばとお父さんに尋ねてみたら「子どものころから、親父がヤニ臭いんが、いややったな。煙草をよう喫うてたな。病気になっても煙草だけはやめれんと、結局それが原因ではようにうなってしもた」とのこと。

「気難しい人なん?」

「まぁ、そうやな。おふくろが、夜中に煙草を買いに行かされてたんは、あれだけは覚えてるわ。自販機があってな、今もあるやろ、古いのん。街灯もあらへんから、まっくらな道をおふくろの持った懐中電灯の明かりがちらちらと地面を照らすんを、子どものころに窓から見とったわ。ついていったことがあるけど、闇に煌々とあかるい自販機が立っとうから、蛾がぎょうさんくっついててな。気持ち悪かったなぁ」

 誰もが要領を得ぇへん。


 おじいちゃんはたしかに存在してたのに、おらんようになってしもたら、そないにも簡単に記憶から消えてしまうもんなんやろか。

 壁にかけらた写真の怒っているような顔が、ほよほよとした白っぽい煙にかすんで消えかかってるように思えた。

 おじいちゃんがこの世に残したんは、煙草のにおいだけやった。その臭さを消すために、おばあちゃんは取りつかれたように花を飾ってた。

 町のホームセンターで売ってる消臭剤とか芳香剤っていうのを置いてみたら、臭さの相乗作用で息もできへんかったらしい。

 春は黄色いフリージア、山で切ってきた小さい花のつつじ。それにかぐわしい香りが満ちる薔薇。夏至のころには熱帯の夜をおもわせるくちなしを。夏には絢爛なにおいをまとった月下美人。台風が近づけば玄関の三和土たたきに鉢を入れ、冬になれば防寒の透明なビニールをかぶせて、また玄関に入れ。たった一夜だけのために、夜の女王さまをおばあちゃんは丹精込めて育てとった。

 いつしか煙草のにおいはうすれ、おばあちゃんの部屋は季節ごとの花の香りがしてた。

 うちが高校をでたら下宿するかもしれへんって考えて、花好きの大家さんにうちのことを頼んどったんかもしれへん。


「そんな高そうな宝石を置いとくん、危なない?」

 紗代ちゃんが、翡翠をのぞきこんでくる。

「うち、なかを知っとったら、ぎゅうっと抱えこんでバスにも電車にも乗ったのに」

「大丈夫やと思う。ここの大家さん心配性やから。このアパートはセキュリティ会社と契約してるねんで」

「……あかん、お金持ちの世界や。ゆかりちゃんの家はあの辺で一軒だけセコムに入ってるんやった」

 紗代ちゃんは、かろやかにひらひらとわろた。

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