5、うち、ずれてんのかな

 ながい春休みになって、うちのアパートに紗代ちゃんがやってきた。

 紗代ちゃんは、高校時代よりもぐんとおしゃれになってる。役場は地味やからいややて、ゆうとったけど。お化粧もしっかりとしてるし、黒かった髪もいまでは茶色い。

 見慣れたセルフレームの眼鏡もかけてへん。

「あれ? 紗代ちゃん。目の色、変わった? それともうちの目ぇがおかしいんかな」

「ああ、これ。カラコン」

 狭いキッチンではちみつ紅茶をティーポットから注ぎながら、うちは「カラーコンタクトなん?」とたずねた。室内にあまい香りがふわっと漂う。

「推しとおんなじ色にしとうて。ほら、爪もむらさきやねんで」

 これもむらさき、と言いながら紗代ちゃんはハンカチやらポーチやらをカバンから出して見せてくれる。

「推しの目がむらさきなん?」

「そう。むらさきのピアスもつけとうし、あれってアメジストなんかなぁ。穴をあけるんは勇気がいるなぁ」

「ピアスみたいに見えるイヤリングも売ってるで。耳をはさむ部分が樹脂で透明やねん」

「へぇ。くわしいなぁ、ゆかりちゃん」

 うちは照れ隠しに紅茶をのんだ。

「ゆかりちゃんは世間に疎いと思てたけど」

 最近ひとりではのうなったん。

 紗代ちゃんの言葉はまっすぐやから、嫌味を感じへん。

「せやなぁ。長いこと話が合う人がおらんかったわ」

「そらそうやろ。高校のころから、おばさんと一緒に新幹線に乗って京都まで行ってお寺やら、舞妓さんの舞台やったっけ、そういうの見に行ってたやん。そんな高校生おらへんで」

「おらんことないけどなぁ」

 うちの実家から最寄り駅まで車で十分。そこから在来線で新幹線の駅までは十五分。のぞみに乗れば、自宅から京都まで四十五分ほどで着く。いっつも混んでるバスはお母さんが乗りたがらへんから、京都市内はタクシーで移動。

 一時間ちょっとで着くし、お寺や神社も高校生はぎょうさんおった。修学旅行かもしらんけど。

 都をどりや鴨川をどり、それに南座に歌舞伎を見にきてる高校生は、いかにも社会科見学って感じやった。

 けど、母親と一緒にきてる高校生も見かけたことがあるから。ゼロやない。

 阪急かて、デパ地下とかお化粧を売ってる階は人でごったがえしとうけど。お洋服を売ってる階は、母親と一緒に買い物してる娘さんがおおいから居心地がええ。高校生くらいの女の子も、二十代後半のお姉さんっぽいひとも。やっぱりお母さんと一緒にワンピースを選んだりしてる。

 上にあげた格子窓から、やわらかにまるい香りがふわっと部屋に流れてくる。

 春とゆうても、まだ桜のつぼみはかたい。梅ははように咲くから、アパートの庭に植えてあるのんが花ざかりなんが、二階の部屋からよう見える。

「意外やわぁ。ゆかりちゃんが、こないな古いとこに住んでるやなんて」

「ここの大家さんが、おばあちゃんのお友達やねん。せやから、ようしてくれはるんよ」

 さすがに木造ではないけれど。マンションではなく、どこから見ても明らかにアパート。けど白い壁といい、左右に開くんやのうて上下に開ける格子窓なんかに洋館の雰囲気がある。

 大家さんはときどきうちにお庭の花を切って分けてくれはる。

 五月になれば豪勢にみっしりと花弁を凝縮した、うすべにのオールドローズを。

初夏には気高い香りをまとう、すっと端正な白百合を。「花粉が服についてしもたらとれへんようになるからね」と、大家さんは鬱金色のおしべの先をすべて取り去ってくれる。

 うちは部屋に飾られたお花で、季節を知る。

 そして香水をつけんでも「三橋さんって、ええ匂いがするなぁ」と学校で褒めてもらえる。一回生のころの「ええ匂いさせとうしなぁ」と揶揄ったような言い方やない。田舎もんのにおいを隠してくれる。

「ごめんな。こっちでライビュがあるもんやからて、泊めてもろて。今日の夕方からやねん、帰るんが夜中になるし、母さんがゆかりちゃんのとこに泊めてもらいってゆうもんやから」

「ええよ。気にせんといて」

「今月はライブも行ったし、そのときはホテルに泊まったわ。ライビュと舞台もあるから、もうお金あらへんわ。お給料がどんどん飛んでいくねん」

 舞台ってゆうんは、2・5次元ってやつや。

 ライブビューイングも、最近になって知った。観にいったことはあらへんけど。

 うちはネックレスやブレスレットは入学するときに買うてもろたし、学費や旅行は親が出してくれてる。でも実際の生活は紗代ちゃんのほうが、お金がかかってる気がする。グッズとかそういうのん。

 お金がない、お金がない。

 それは使ってるからやあらへんの? という言葉の塊を、うちはいっつもごくんと呑みこむ。ひたひたとその言葉は喉の奥やら食道やらでひっかかって、胃の腑に落ちるんを嫌がる。

 紗代ちゃんはわらってる。やさしい紗代ちゃん、うちが田舎におっても都会におっても態度を変えんと、ほわほわと微笑んでくれる。

 紗代ちゃんはローテーブルの前に正座して、淹れたばかりのはちみつ紅茶をひとくち飲んだ。ふわっと表情がほぐれるのんが分かった。

 そろそろ三月。

 こんど四回生になるせんぱいの就職活動は、もうすぐ会社説明会がはじまる時期や。

 けど、それは建前上のこと。もうとっくに内々定をもろてる学生もおるらしい。ほんまは三回生で企業のインターンに行かなあかんのに。けっきょく先輩はどこにも行かへんかった。


「たった五日や十日だけ企業に出向いて何が分かるっていうのさ。しかも出席しなければ、試験を受ける資格がないとか。何様だよ。一週間のインターンの最中に、一日だけ別の会社のインターンに出るなんていう奴もいるけどね。けど、ぼくは知ってるんだ。クソな学生がせっせとインターンに顔を出したところで、出席すらしていない優秀な学生が内定をかっ攫うってことをね。窮屈なスーツを着て鬱々とした顔で歩いてる奴らを見ると可哀想にと思うよ。汲汲として三回生の夏休みを終えて。まぁ、ぼくはSPIとかの筆記試験も軽々と答えられるだろうし。ああ、院生でもSPIの対策の授業があったりするらしいね。バカじゃないのかな。あんなの問題集にさっと目を通せば難しくないだろうに。休みに遊びに行かないでどうするのさ。訳が分からないよ。大学生の間に出かけないと、社会人になったらそんな時間もとれないだろ。そういう長期的な見通しが立てられないから、奴らは無能なんだよ」


 いつごろからやろ。

 せんぱいの話を長いと思うようになったんは。

 うちも今年は三回生になるから、さすがにインターンは行こうと思てる。

 それをせんぱいに言うたら、きっと蔑んだ目で眼鏡のずれをなおしながら「なんだ。君も無能の仲間か」と舌打ちされるだろうから、話せなくなった。

 インターンの情報や、どこが求人を出してるんか調べるために就職課に通ううちを見て、同級生の子らも態度が変わった。

うちが親の会社や取引先にコネで入れるわけやのうて(お父さんは高速道路のインターチェンジのあるとなり町で、会社を経営しとうけど。工場で化学染料をつくってるし、近くの主婦がパートで事務や工場で働いてはるから。工学部の応用科学科に進むことのできへんかったうちは、跡を継ぐこともかんがえてへん。そもそも有機化学とかさっぱりや)ふつうに就活するって知ってからは、ふしぎとよう話すようになった。

 ノートを貸してほしい、とねだられるだけやのうて。ほんまにふつうの話。先生の悪口とか、推しの話とか。

 うちに推しはおらんけど、ふんふんとうなずいてたら話のまぁるいわっかからこぼれ落ちることはない。

 これでええんやろか、と思うことがある。ぽこり、ぽこりと小石やら砂を動かして、水が池の底から湧くように。

 そのちいさい泡は、いつも水面にたどりつく前には消えてしまう。

 それでもうちはなんにも変わってへんのに。ただ、どういう風に考えて、どういう風に動くつもりかを相手が知っただけやのに。

 春のにおいがしたせいやろか。

 風がふいて、お庭の白梅のはなびらがぶわっと一斉に散るのが見えた。それはまるで雪。春の雪。

 涼しい甘さのひとひらが、窓の隙間からすべりこんでくる。

 香りは記憶を呼び覚ます。うちは、中学生のころにおばあちゃんと見た夜空を思い出した。


 あの日も、どこからか梅の花の香りがただよってきた。

 雪片みたいな、あまりにもうすい梅の花びら。ちらちらと。夜風にもてあそばれては、ゆっくりと草のなかに落ちてゆく。

 桜ふぶきほどには、たくましくもないし荒々しない。ほんまの粉雪みたいにはかなくて軽やかや。

「ええにおいやなぁ。姿がよう見えへんぶん、夜の梅は香りが高いわ」

 畑のそのむこう、暗闇にぼうっと白く幽霊のように浮かんで見えるのが梅の花やろか。

「あの香りがあつまって、空に昇ってかぐわしい雨をふらせてくれたらええのにね。そう思わへん?」

 うちは「うん」と、おばあちゃんに答えた。

 梅の香りはほんまにきれいで。きっと音すらせずに、地上にまでたどりつかへん霧雨がふさわしい。ただ清いにおいだけが湿度といっしょに髪やら服にまとわりつく。そんなんがええ。


 ひとりで夜更けに外にでた理由は、猫をさがすためやった。うちが家におらんことに気づいたおばあちゃんが、いそいで追いかけてきてくれたんや。

 猫の名前はなんやったっけ。庭に居ついた子ぉやったから、ろくに撫でさせてもくれへんかった。

ふてぶてしいキジトラのオス猫。そもそもうてたといえるんかどうかも怪しいけど。

 かたくて茶色い毛、しっぽの先がカギみたいになっとって。ドライフードととうもろこしが嫌いで、猫缶が好きな子やった。パウチ入りの猫のおやつを食べるときだけ、キジトラはとことこと足どりも軽うにやってきたもんや。

 そうか、猫がおらんようになったのは、今ぐらいの春になりかけのころやったんや。

 ぼんやりとした白っぽいわっかが、道をちかづいてくる。

 わっかが上に動いて、とつぜん、視界が光につつまれた。

 まぶしすぎて目ぇを閉じたとき「ゆかり」と呼びかけられた。おばあちゃんやった。

 それから懐中電灯を消して、おばあちゃんとうちは舞う梅花を眺めてた。しっとりと更ける夜やった。

「オス猫はな、なわばりを広げるために遠くにいってしまうもんなんやで」

 街灯なんて便利なもんはあらへん。集落のある辺りをすぎて、家のあかりのない夜道をうちが平気で歩けとったんは、暗闇に目が慣れたせいやったんかもしれへん。

 どこか遠いところからカンカンカンと鉦をたたく音が聞こえてきた。逮夜なんやろか。高い鉦に呼応するように、山のほうから女性の悲鳴に似た声がする。

鹿や。

「最近は、星も見えんようになってしもたな」

 ため息のように呟いて、おばあちゃんが足を止めた。ずいぶんと昔に舗装されたほそい道は、通る車もほとんどあらへんから。色あせて割れたアスファルトのまんなかからは草が生えとう。

 頼りなくひょろっとした草は、夜風に揺られてふるふると震えとった。

 空を見あげると、北斗七星とあとは明るい星がいくつか。月が雲にかくれてて、夜やのに白うみえる薄い雲のはしは、虹の色をしてた。

「あのだいだい色の星は牛飼い座のアルクトゥルス。麦星ともゆうなぁ。それから、あのきれいにぴかぴかと白いんはおとめ座のスピカ」

 おばあちゃんの細い指がさす星は、すぐにわかった。けど、星は見えても星座の形がわからへん。

 もともとおとめ座はスピカ以外に明るい星がないらしい。それでも、山の向こうの空をサーチライトがぐるぐると夜中まで照らしてるのが原因やと思う。

 山に囲まれた地形やから、そもそも空自体が狭いのに。中学生の頃も、大学生になって街で暮らしはじめても、星座の形はようわからへん。なんの星やろって空を仰いだら、だいたい惑星やった。

 大家さんが「コンクリの建物に囲まれて、空はよう見えへんでしょ。ゆかりさんには、ほんまの空やないかもしれへんね」と申し訳なさそうに言わはったことがある。

でも空をふちどるんが鋭利なコンクリートか、獰猛に厚くしげった鬱蒼とした木々をいだく山かの違いで、空の狭さに大差はない。

 天の川かて、おばあちゃんは「昔はどれが星座かわからんくらい星があって、ほら、あの山の頂に天の川のすそがかかってたんやけどな。いまはもう見えへんな」と肩を落とした。

 小学生のころにはなかった、遠いサーチライトの光。

 強烈な光をはじめてみた夜は、事件でも起きたんかと気が気やなかった。

 けど、翌朝の新聞にはなんにも出てへん。

 それから毎夜、晴れようが曇ろうが、雨が降ろうが、台風がたんねんに舐めるように北上しようが、サーチライトは空を照らしてる。

 晴れた夜にはそのまま宇宙にすいこまれるように、まっすぐに。雲が垂れこめた日には、ぼわぼわと空低くこもって鈍く光ってた。

 村の男の人らが、休みの日ぃは朝から、平日は夜に車でいそいそと出かけるようになった。

 ある人は、まるで通勤でもするかのように日参して。

「山の向こうの町に、おおきいパチンコ屋ができたんや」と、お母さんは声をひそめた。

 どうりで、夜おそうに帰ってくる車の音が増えた気がする。

 ライトで客寄せとか、まるで誘蛾灯や。

 洋画で見たことのある監獄のサーチライトのように狂暴ではないにしても、まっすぐな光は星の存在をことごとく殺してた。

 上空の風に雲が流されて月が現れる。サーチライトをものともせずに、満月をすぎてすこし痩せた月は輝いてる。

 お月さまに照らされて、畔にはえた草に艶っぽい光がこもる。夜露にしっとり濡れた草の葉は、昼間のぬくもりを放出するかのように青いにおいが残ってる。

 まるい葉に、ほそい葉に、カミソリのように鋭い葉にやどる夜露。それぞれの珠が、ひとつぶひとつぶに春の夜の月光をとどめようとしてる。

 水滴が落ちたところで音なんかせぇへんはずやのに。風が草むらをゆらすと、かそけき露のささやきを聞いた気がした。

 葉が足をなでて、ちりりと痛んだ。ちりちり、痛みはおさまらん。

 サンダルからのぞくくつしたが、いつのまにか湿ってる。

 梅の花のにおいが濃密になる。

 カンカンカン。まだ終わらない鉦の音。どこかで猫のダミ声が聞こえたように思た。

 あの子はこれから遠くに行くんかなぁ。右に曲がったしっぽを勇ましくぴんと立てながら。サーチライトのそのまた向こうまで。


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