4、ノートとコピーさえあれば
春がきて、せんぱいは三回生で、うちは二回生になった。
学年があがっても、せんぱいとうちはおんなじ授業を取ることがおおかった。前期だけやのうて、後期になっても。
教室ではとなりに座ってほしいけど、だいたいせんぱいはいちばん後ろにおる。肩越しにちらっと姿を見ると、手の動きがノートをとる感じやのうて、スマホを触ってるみたい。
出席せんと単位がもらわれへんから。
そんなのテストで及第点をとれば問題がないのに、あいつらはバカだから出席していれば満足なんだ、と聞いたことがある。
大変やなぁ。せんぱいはかしこいから、きっと誰もがバカに見えてしまうんや。
せんぱいの態度を、ほかの学生らは「最悪。自分では、かっこいいとか思てんのとちゃう」とか「イキりすぎ」と顔をしかめてる。先生らも「
でも、せんぱいはかしこいって自分でゆうてるし。うちは自らをかしこいなんてとうてい思われへん。
世の中は知らんことばっかりで、それで単位は足りててもよぶんに授業をとってしまう。きっとせんぱいはなんでも知ってるから、生きること自体が退屈なんやと思う。
「まぁ、授業は去年も聴いてたから、理解はしてるけどね。でも、あいつ気に入らないから。ほら、大学の先生っていうだけでえらそうだし、忌々しいんだよ。教え方が悪いから、ぼくは単位を落としたんだって思い知らせてやらないといけないから。あと教科書代わりに自著を買わせるよね、高額の。そういうのでちまちまと印税を稼ごうとする陋劣な心が嫌いなんだよ」
「ろうれつ」
「君、知らないの? 卑陋のことだよ」
「ひろう」
頭のなかで、披露とか疲労って変換されてまう。
「なんだ、君もそっち側か」
「すみません」
うちは肩を落としてうなだれた。
せやな。熟語もよう知らんねんから、うちはやっぱりあほなんや。本だけ読んどっても、しゃあないんや。
構内のベンチにすわり、眼鏡のずれを指でなおしながら、せんぱいは渋々といったようすで、うちからコピーを受けとる。
ごめんなさい、ノートをとるしか能がのうて。
コピーはお金もかかるし面倒だから、三橋がぼくの分をコピーしといて。ぼくはお金がないからと、いつだったか言われた。
うん、ええの。一枚十円するから、安いゆうても枚数がふえると、高なるもんね。
うちは実家は田舎やけど家も大きいし。土地も山も持ってるし、田んぼも人に貸している。
昔に
せんぱいは、お弁当屋さんのバイトに行ってて。そこで巨大なやかんで大量のお湯を沸かさなあかんのが、ほんまに大変やとこぼしてた。
「主婦のパートは短気で煩いし。そのくせ扶養の範囲だか何だか知らないが、安易にシフトを調節して、こっちに皺寄せがくる。無能の集まりだ。急に子供が熱を出したと言っては早退し、子供を病院に連れていくと言っては欠勤する。家事をするだけで旦那に食わしてもらってるくせして、えらそうにぼくに指示を出すんだ。感じの悪い。まぁ、社会勉強と思って我慢してやってるけどね。ああいう輩は、子供が思春期になったら口もきいてもらえないんだよ。けど、此の国では学問をしようとするとどうしても金が掛かる。まったく他の国なら教育費は無料とか当たり前なところもあるのにさ。金持ちばかりが優遇される。若しぼくが政治家になったら、先ず其の点を変えてやるね。消費税を撤廃して、消費者の購買意欲に火を点ける。奴らは愚かだから、僅かでも税が掛からないとなれば、ここぞとばかりに買い込むだろう。食べ切れないほどの食料品を積み上げては、賞味期限が切れたとヒステリックに怒り出す。推し活と言い訳して、安っぽいのに高いグッズに大枚を払う奴らも、もっと経済を回すのに貢献すればいい。同担拒否とか言って、グッズを取りあう奴らもとにかくバカばかりさ、搾取されているとも知らずにね」
先輩が熱中しすぎて、眼鏡が鼻のふくらみ辺りにまでずれてきた。目元が神経質にひくひくしている。
「そうなん……」
そうなんですか、とうちが発する前にまたせんぱいが話しはじめる。
「此処のところ何でも値上がりばかりだ。しかも何度目だ。ハンバーガーに牛丼に、電気代に」
せんぱい、やっぱり牛丼なんや。
なんかの回路がかちっとつながった。
「給料はそのままなのに値上げで生活を圧迫。足りなければ副業をしろ。休みを潰して体を壊しても、其れは副業の所為。老後は夫婦で二千万が必要。とんだ言い草だ。そんな金、何処に有る。其れも健康である事が前提だ。こんなにも農薬と添加物にまみれた食生活を強いられている日本人が、老後も健康でいられるなど有り得ない」
二千万って、そないに大金かなぁ。ひとり一千万やろ。おばあちゃんが入っとった施設は、場所が遠いのが難点やったけど。入所金とかいろいろあわせて五千万ほどで。それでも月々にお金がかかるのに、お父さんが「そこまで高ないから助かるわ」ってゆうてたけど。それに農薬がいややったらオーガニックのんを買うたらええのに。
「何か?」
「え。なんでもないです」
みょうな顔をしてしもたんかもしれへん。
これはきっと世間知らずの考えや。ふつうやないんや。
けどせんぱいは、本当にこの国のありかたに怒ってるんや。なんて正義感の強い人なんやろ。
動画もよく見てるらしいけど。鉄道のん以外では、やっぱり政治に関するまじめなのが好きらしい。
アルバイトのないときは、よう電車で旅行に行っとうらしくて、ビジネスホテルに泊まっても意識の高い動画を見てるってゆうてた。東京やら金沢やら島根やら名古屋に広島、鳥取、博多。おんなじ場所に行きすぎて、もう飽きたって話もきいた。
うちはテレビでニュースがついてても、流し見するだけやから。遊んでてええ休みの日や旅行先で、政治関係の動画を見るやなんて、すごいなぁ。
だからせんぱいは言いたいことがいっぱいあって、常にそれが口から洩れてしまうんやね。頭の回転が速すぎて、早口になってまうんやね。
ほかの人が「あいつはおかしい」と言うても、それは単にせんぱいのことが理解できへんから。
生きるのも大変やろなぁ。誤解されてばっかりで。
でもうちは大丈夫や。せんぱいのことかしこいって、ちゃんとわかってる。
「けど、バイトもしなくていい学生とか、聞いたことがないよ。ああ、内部進学の奴らにはいるみたいだけどね。親の金で遊んで、車も買ってもらって。何の疑いもなく、当たり前に富を享受している。ほんの少しも働いたことがないくせに恥ずかしくないのかな」
恥ずかしいです。
うちは胸元を飾るネックレスを手でかくした。ほんまはハリーウィンストンか、ポメラートの色石のついたネックレスをお父さんが買うたろって言ってくれたけど。お母さんが、まだ学生やからさすがに百五十万もするようなアクセサリーはつけへんほうがええ、その方がゆかりのためや、とやっぱり止めてくれてた。
選んでくれたんは真珠のスルーネックレスやった。
ひとつぶだけの真珠。でも、真珠や思われへんくらいまわりのものを映しこんで、しっとりと光ってる。マザーオブパールとおんなじ、水のなかのしずかな記憶をとじこめたやわらかな光。
うち自身は真珠にはなられへんけど。この真珠母貝のつややかに濡れた虹のかけらのなかで眠りたい。ほんまにそう思う。
ブレスレットもネックレスも、イヤリングやカバン、それに服に靴。ぜんぶ両親が買うてくれるから。うちはアルバイトをしてへんことを、誰にも言われへん。
やのに、言うてへんのにばれてしもとう。
――三橋さんはええよね。実家が太いから。バイトもせんで、勉強に時間をさけるから。けど、社会勉強せんと将来こまるで。
――わたしらとはちゃうもんね。店長がシフトを入れすぎるから、課題をこなす時間もとれへんわ。
うちのノートを借りながら(そういう時だけ「三橋さぁん」と彼女らは甘ったるい声をだす)女子はちくりとうちを刺す。
なぁ、紗代ちゃん。
うちはほんまに華やかな場所におるん? 都会にでるためにそろえた服やカバンや靴ばっかりが華やいでて、これっぽっちも周囲にとけこまれへん。
高校時代の放課後はおしゃれなカフェに行っとったんやのうて、柴犬の散歩をしながら、まぼろしになった住宅地の跡地にはえとう木苺を食べたりしとった。そういう地味さが、吐く息にかく汗ににじみ出てるんかもしれへん。
ほんまのお嬢さんは、わんちゃんをエルメスのバーキンに入れて運ぶんやで。あんたからは草のにおいがする、つぶれたカエルのにおいがするって。鼻のええ人にはわかるんやろか
もしかしたら今もうちには見えてへんだけで、木苺やヤマモモの赤に染まった指をしてるんが、敏い人にはわかるんやろか。
中学や高校んときはよかった。
女子はおんなじセーラー服を着とったから。カバンも靴も学校指定のやつやったから。髪型もポニーテールはあかんとか肩より長かったら下のほうで結ばなあかんとか、髪ゴムは黒か茶色。髪飾りは禁止ってこまかく校則で決まっとったから。みんながおんなじ格好で、ちがうんはせいぜいお財布やハンカチくらいやったから。うちは浮くこともなかった。
大学でも制服があったらええのに。髪は染めたらあかんとか、化粧したらあかんとか、決まりがあったらええのに。もしくは髪を茶色に染めなあかんとか、逆の方向に決めてくれるんでもええ。
大学が指定した化粧品会社のんを使うように、とか。教科書みたいに構内で一斉に販売してくれたらええのに。この十種類ほどのなかから、好きな色の口紅をえらびなさい。
そうやってちゃんと指示してくれたら、守ることは簡単やねん。不平もいわへんで。
自由になんでもええ。なんで?
高校三年生まで、生徒の好きにしたらあかんて指導されてたのに。
それまで二十五メートルプールの、さらに青と黄色のコースロープで区切られたせまい筋を、前だけ見て泳いどったらよかったのに。クロールか平泳ぎかすら決めてくれとったのに。
いきなり「あんたらは自由です」と、海に放りだされてどないしたらええのん。
なんでだぁれもマニュアルをつくってくれへんの? そういうの事務の人の仕事とちゃうのん?
ここでもハイブランドのカバンを持ってる人はおる。財布なんかほとんどの人がそうやろ? やのに、そういう人らはなんで認められるん。
やっぱりうちが都会の出身やないってばれてるから?
誰かがおとした飴が、レンガ色の石が敷きつめられた地面にころがってる。いかにも香料ってかんじのイチゴのにおい。赤い飴にむらがる蟻の群れが、季節外れのスイカと種をおもわせた。
花壇に植えられたコスモスが、白やらピンクの花を咲かせてる。なつかしい秋のにおい。蟻は花壇の地面から出てきてるみたいやった。
遠く体育館から聞こえてくる野太い声。
風にのって水のにおいが鼻をかすめた。ああ、そうや。大学の外を川が流れとったんや。
せんぱいと出会ってから、川をゆったりと進むカヌーを眺めることものうなった。
うちはせんぱいばっかり見とったんやな。
せんぱいの猫背の角度。洗濯されて徐々に色あせてゆくチェック柄のシャツ。ひもが黒っぽい色に汚れたスニーカー。コピー用紙を受けとるときの細い指、ひらたい爪。コピーの存在をすぐにでも抹消したいのか、紙がしわになるのも折れるのも構わずにほうりこまれるリュックは、さいきんファスナーの具合がようないみたい。この間までつけられてた駅名の案内板のキーホルダーは、今は急行だか特急だかのヘッドマークになってる。
うちはせんぱいしか見てへん。
いまも浮いてるし、女子からは遠巻きにされてるけど。うちを価値ある存在にしてくれたんは、このひとやから。
せんぱいのために丁寧にとったノートさえあれば、コピーさえあれば。腕やら背中の産毛がぞわぞわとそそけだつような媚びた声で女の子らがやってきても、それでもそのいっときだけは、うちは受け入れられるから。
せやけどなんでやろ。一回生のときから、試験のあとの教室のゴミ箱に、うちの文字が写った紙が何枚も捨てられてて。コピーにコピーを重ねて、かすれてしもた文字のうえに、瀬戸内海のにじんだ水色の空みたいな色のアイスキャンディーの汁がしみこんでいって。
ぶよぶよになった紙を眺めてると、期間限定でも人から求められてるのに、なんでこんなにも寂しいんやろって感じる。
なぁ、おばあちゃん。おばあちゃんは「困った人がおったら、助けてあげるんよ。情けは人のためならずゆうてね、めぐりめぐって、いつかええことがあるよ」って、よう話してくれたやん。
うち、なんにもまちごうたこと、してへんよね。
「じゃあ、ノート有り難う」
せんぱいの声に、うちは今に引き戻された。
ぽっと胸の奥に灯がともる。
ちいさいちいさい、マッチをすったみたいな光やった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます