3、こんにちは世界、かがやく世界

 入学しても窓の外を眺めてばかりのうちに、親しげに声をかけてくれたんがせんぱいやった。 

 オリエンテーションでも友達もできへん。というか、もうみんな最初から顔見知りなんか楽しそうに笑って話しとう。

 内部進学の子だけやない。うちみたいに大学受験で入った子もどこで知りおうたんか、すでに知りあいがおる。

 授業中でもいちばん前の席にひとり、空いた時間は図書館で授業がはじまるぎりぎりまで本を読んで。泉鏡花が、つぎの週は川端康成がうちのつれやった。机の上やカバンのなかで寄り添ってくれる親愛なるひとらは、文字という美しいいろどりだけを残して鬼籍にはいってはる。

 学食でひとりは目立つから、晴れた日はコンビニで買ったパンをベンチに座って食べとう。それと野菜ジュース。

 コンビニ。わざわざ車で乗せていってもらわんと行かれへんかったコンビニが、どういうことか大学の構内にはある。それも二店も。

 故郷の村よりも大学の学生のほうが人数が多いからやろか。学校の外に出んでも買い物ができるとか、都会は便利すぎる。

 コンビニの商品はこってりと味が濃くて、これまでに食べたことのないもんが多かった。

 最初に温かいまま紙の袋に入って売ってるからあげを食べたときは「水、水」て、飲みものに手をのばしたし。甘いもんが飲みとうて買おうとした、かわいらしいピンク色の缶に入っとんのはお酒やった。

 実家から車で十五分のスーパーマーケットでは、お酒売り場になんかいくことあらへんかったから、以前からそういう商品があるんかそれとも新商品なんかわからへん。

 レジで二十歳以上かどうか確認する画面がでてきて、あわてて「ごめんなさい。間違えました」って返したこともある。たしかテレビのCMで見たことがある缶やと思たけど。桃のジュースやなかったんや。もし嘘をついて買おうとしたら、学生証を見せるようにいわれて駐在さんに通報されるんやろか。お父さんに連絡がいって退学とかになるんやろか。

 そんなんなったら、一瞬で村じゅうに噂がひろまってしまう。

 はじめはとまどったし、コンビニに足も遠のいたけど。レジの人は忙しそうで、うちのことなんか覚えてもなかった。お客さんがようさんくるから、まぎれてしまえる。

 おおぜいのなかで名前のない存在になれる。それはとても心地がよかった。

 カップ麺は、そのままお店でお湯が入れられることも知った。ふだん買い物にいってるスーパーにもたしかにポットは置いてあるけど、なんのためのお湯かわからんかったし。そもそもスーパーではカップ麺の蓋をその場で開けて、お湯をそそぐ人なんか見たこともなかった。

 男子学生が熱そうなカップ麺とおにぎりを手にコンビニを出ていく姿を見て、ちょっとあこがれた。けど、スープが残ったらどうしたらええんやろ。あないな塩分のおおいのん、ぜんぶ飲みきることなんかできへんしと考えて実行はできへんかった。

 帰るんが遅うなっても、コンビニの青白い灯が煌々と闇を照らしてて。「おなか、すいてへんか? のど、かわいてへんか? 生理用品とか、買い忘れてへんか?」と尋ねられてるようにも思えた。常にだれかが中におる白い箱の存在に、うちはものすごく安心したんや。


 せんぱいとはコンビニでも会うことがあった。

 まるめた背中、眼鏡をかけてて、赤やら青やら派手なチェック柄のシャツ。意外と似た風貌のひとが何人もおるから。それがほんまに先輩かどうかは見極めにくい。

 けど、うちにはわかる。

 先輩の猫背の角度。眼鏡のずれた感じ。少し大きくて肩の部分があってないシャツ。黒やのに、かどがすすけた灰色になったリュックについてる、どっかの駅名の案内板のキーホルダー。

 似ている人がおおいけど、ちょっとずつちがう。工学部の人は、ロビーの机を挟んでカードゲームをしてるから。

 ひととおりのパンやらおにぎりやらを試して、うちの定番になったのはマヨネーズコーンパンやった。となりに並んでるツナマヨのほうが、よう売れとうけど。むしろ残ってるマヨコーンパンを応援しとうて、うちは迷わずカゴに入れる。

 お母さんがオリーブオイルとたまごとお酢で作るマヨネーズとはぜんぜん違う味やった。

 ぴりっと音だけはええのに、なかなかきれいに開かへんビニール袋から、マヨネーズでべたべたしたうすいパンを取りだすと、かならずコーンがひとつ地面にこぼれ落ちる。

 散った桜のはなびらが踏みしだかれた地面を、若葉を透かした柔らかい緑の影が落ちる地面を、黒いちいさい桜の実が落ちた地面を。季節がちょっとずつ移りかわっても、うちのしなしなのコーンは月曜から金曜まできっちりと黄色のいろどりを添える。

 コーンも集団でおるんが窮屈やったんかな。けど、自由になってもあんたはけっきょく食べられる運命なんやで。

 毎日、うちはひとつぶのコーンに心のなかで話しかけ、そしてとっとっと、と跳ねながらやってきた雀にくわえられてしまうコーンを見送る。

 雀は桜の実には見向きもせんと、うちのコーンを待ってる。

 ――大学って華やかやねんで、ゆかりちゃんはええなぁ。街に出れるから。あたしなんか役場に就職やで。職場はおじさんとおばさんしかおらへんし。しかも小学校んときの生徒の親やで。ほんまにええなぁ。

 紗代ちゃんの言葉が、ときどきあざやかによみがえる。ずいぶん会(お)うてへんのに、声は昨日聞いたみたいにみずみずしい。

 ひとくちかじると、口のなかでパンのほのかなあまさと、もったりとしたマヨネーズの油が混じっていく。この油、なんの油なんやろ。はじめて食べたときに思った。

 コーンの味は、ようわからへん。

 しなびたコーン。お父さんが家のそばの畑で栽培しとったとうもろこしは、もっとぷりっとしとって。歯ごたえがあって。噛んだときの触感がぜんぜんちがう。

 もいですぐがおいしいんや、お湯をわかしといて。とお母さんにゆうてから、お父さんは畑から台所に青いにおいの皮につつまれたとうもろこしを持ってきた。

 新鮮な粒はぷりっと弾力があって、歯やあごに力をこめてかじった。果汁とはいわへんかもしれへんけど、とうもろこしのお汁がしぶきとなって辺りに散る。

 軒先でうてたキジトラのでっぷりした猫が、台所にはいってきて、うちが床に落としたとうもろこしの粒をくんくんと嗅いでた。

 こんなにもおいしいのに、興味あらへんって顔でふいっと庭にでてゆく。

 とうもろこしはバターやらおしょうゆやらをつけんでも、そのままでもじわっと染みいる甘さが広がっていく。夏の味やった。

 窓のそとは、まっしろい入道雲が上空までのびとって。青空の下の畑では、とうもろこしの鋭い葉ぁが、さわさわさわさわと揺れとった。草のいきれのにおい、午後にはもう、うす青い絞りの入ったあさがおはしおれとったけど、酔芙蓉はほのかにピンクに染まってた。

 あのころのうちは、笑えとったな。

 いまはパンの上のしなびたコーンみたいや。 

 潔癖な鏡花が、もしマヨコーンパンを食べたら、指でつまんどった最後のひとくちは捨てるんかな。

 手ぇがべたべたするんがいやで、うちはいつもビニール袋越しにしかパンを持てへん。油ではりついた袋のなかには、地面に落ちたコーンの数倍はつねに残ってしもてた。


「自分、日文だよね。大前さんの授業、とってるでしょ」

 とつぜん目の前に影があらわれて、うちはまちがえて指を噛んでしもた。

 親指の先にのこる歯型。こってりとくどいマヨネーズの油が、舌だけやのうて指にてらりと移る。パンはあとふたくちほどあった。

 体内で消化して吸収されるマヨネーズだけやのうて、皮膚からもじかにマヨネーズが細胞にしみてゆく気がする。

「いつも教室の最前席に座っているよね。一人で」

 いつもうちの視界は、自分の影ばかりやったから。ほかの人の影が入ってくることなんか、大学生になってからなかったことやから。

 周囲の人が半笑いの瞳で見つめてるのんが怖ぁて。

 けど、そのほそい影が発する声は、高くてきんきんして。なみなみした形のプラスチックのケースに入った、目の粗い赤いかき氷を、木の薄いスプーンですくって一気に食べたときの感じに似てた。

 夏の声やった。

 一歩ちかづいてくるたびに、なんかあまい匂いがした。

 花? ちゃう。香水でもない。果汁のはいってへんイチゴのかき氷の蜜がちかいかも。

「聞こえてる? 近代文学論の授業。当然とってるでしょ」

 せんぱいや。

 四月の近代文学論の授業のとき、いちばんまえに座ってるうちが、背中に視線を感じて。ふり返ったときに目があったんがせんぱいやった。

 最初は二回生ってわからんかった。むしろ同級生のほうが大人みたいやったから。

 せんぱいの声は高いばかりやのうて、だんだんと速よなった。


 顔をあげると、眼鏡の右側のずれが視界に入った。こないに接近したんははじめてや。せんぱいは猫背なのか、すこし前かがみで。前方に落とした肩のむこうに、十二色絵の具の青をチューブからたっぷりと出して、そのまま水で薄めもせずにべったりと塗ったような、濃厚な空が見えた。

「ねぇ、聞いてる?」

 乾燥して皮がちょっとめくれた、うすい唇のはしがひくひくと動く。

 せんぱい、話すときにクセがあるんや。知らんかった。

「ぼくさぁ、今年近代文学論を落としたらまずいんだよね。いや、分かるよ、あんな講義は簡単だし。けど、大前さんは准教のくせしてやたらえらそうっていうか。段々、テストを受ける気にならなくなってさ。当然、成績はさんざんだった。そりゃあ、ぼくは高校が市内で一番の進学校でさ、あ、知ってる? 浜高。其処の出身なんだけど。え? 知らないの? 吃驚。そんな人、いるんだ。駅前の進学塾の看板の側に浜高に何人合格って書いてあるでしょ。君、どこか遠い所から来たの?」

 あまりにも早口でしゃべるから、せんぱいが何をゆうてはるんか、うちには半分も理解できへんかった。

 最後の出身を訊かれたとこはわかったから「うちは」と答えようとすると、もうつぎの話題にうつってた。けっきょく、唇がうごいただけで声帯がふるえることはなかった。

「此処ってさ内部進学が多いから、頭の悪い奴ばっかりなんだよね。碌に勉強もしないでさ、高校受験も大学受験も免除されている。親の援助も厚い。全く楽な人生だよ。たまたま生まれがいいというだけで、自分の実力でもなんでも無いくせに。そう思わないか?」

 でも。受験せんでもええってゆうても、ふだんの成績が悪かったらあかんのとちゃうやろか。

 けど、うちの言葉を待たずにせんぱいは話しだした。

「まぁ、ぼくは中学生の時に高校受験でもの凄く苦労して頑張ったから頭脳も優秀だし勉強は無用、楽勝なんだけどね。けど、大前さんは無能なくせに煩いんだよ。今度及第点を取らなかったら、三年に進学させないって……えらそうに、何様だよ。くたばれ、中年オヤジが。まぁぼくは院には進まずに敢えて社会に出るから、あんな風に大学に縋って生きるしか術のない不能とは違う訳だ」

 院に行くことも視野に入れてるのに、そっちは選ばへんのや。すごい。えらいんや、この人。

 それがうちが、せんぱいに抱いた第一印象やった。

 そんなえらい人が困ってる。困って、おおぜいおる一回生のなかから、うちに声をかけてきてる。

 勇気がいるにちがいないのに臆することもなく。うちなら挨拶するのにも覚悟をきめんとできへんのに。名乗るわけでもなく自分の話をすらすらと流れるように、ううん、まるで瀑布がどぉんと大量の水をいっきに落とすように話し続けられる。

 きっとコミュニケーションが上手なんや。

 うちは自分のことなんか全然話されへんのに。訊かれても言葉に詰まるのに。すごいなぁ。訊かれもせんのに、こないに話すことがあって。

 胸の奥がもぞもぞした。さっき食べたばかりのマヨコーンパンが胃のなかでおどってる。


 よかったね、よかったね。

 はじめて先生以外の人とお話ができたよ。

 逃亡せぇへんかったコーンのひとつぶひとつぶが、歓声をあげる。

 構内のコンビニで売ってるお弁当の容器やら、おにぎりの袋やべったりと油のしみたから揚げの紙袋までが、網目のゴミ箱のなかで日光を弾くようにきらめいて見えた。

 この世はこんなにも美しかったんや。

 えらい人が、うちを認めてくれはった。

 こんにちは世界。

 かがやく世界。 


「聞こえてる?」

 せんぱいが訝しむような声で問いかけてきた。

 しばらくまともにしゃべってへんかったうちは、声がちゃんと出ぇへんかった。

「……ひこえて、ます」

「じゃあ、近代文学論のノート貸して。あと英語も」

 それがせんぱいとの出会いやった。

 うちがうなずいた時、周囲で蟬がわんわん、じぃじぃと鳴くのが聞こえた。

 植えられてる木自体が、まるでそういう楽器になったみたいに枝ごとに蟬をつけて騒々しく鳴らしとうみたい。

 枝は腕、何本もの腕にびっしりと蟬をはりつけて。じゃわじゃわ、しゃわしゃわとそれぞれの木が存在を主張する。音が空中を波紋となって一斉にひろがった。

 そうか、もう夏になってたんや。

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