7、正解やなかった
予想どおり、せんぱいの就活はうまいこといかんかった。
表向きには面接がはじまるという六月一日。もうほとんどの四回生は内々定をもろとった。それも一社だけやのうて、二社も三社も。
入学式のために買うたというスーツを着たせんぱいを見たんは、鈍色の雲が低く垂れこめた午後やった。
ゼミが終わった後の部屋でうちは本を読んどった。泉鏡花の『春昼・春昼午刻』
泉鏡花の代表作は『高野聖』やけど。あれが代表作なんは、うちはどうにも納得がいかへん。たしかに峠道での蛭とかの描写は、背筋がぞぞっとするほどすごい。すごいと思う。
うつくしい魔とであう山峡の幽玄。霧のなかを迷うような擬古文。
いわゆるファム・ファタルといわれる女性がでてくるんは、いかにも鏡花らしいけど。もっとこう『草迷宮』みたいな亡くなった母親を慕いつづけるような、魔だけやのうて妖艶やのにやさしいとか、そういうのんが本質に近いんとちゃうんかなぁ。
『高野聖』は読みやすいから、売れたから代表作になったんやろか。
うちは専門に研究してるわけやないから、ようわからへんけど。鏡花の小説は、もっと絢爛豪華なほうがええ。
きりきりはたり。鶏が羽うつような機織りの音。とろりととろける、明るいのにほのくらい春の午後。
問題はヒロインの玉脇みをが描いた〇△□の記号を、どう説明するかや。
きりはたり。実際に音が聞こえてきそうな気がした。
ほんまは晴れた日の春の午後、たんぽぽやられんげ草の花が咲くなか、じれったい心地がするのにどないしようものうて、地面に足はついとうのに、たんぽぽの綿毛が風に消え去るように自分のこころもどっかに飛んでいってしまいそうな場所で読んだほうが雰囲気が出るけど。そういうとこはこのへんにはあらへんし。しかも主人公の
古い文庫やから、紙もインクも高い時代やったんやろか。薄い紙は周囲が黄ばんで、小さい文字を恥じらうようにひっそりとかすれたインクは、顔を近づけんと読みにくい。
ページをめくろうとして難儀して、雨が降りはじめたことにようやく気づいた。
「はぁ。好きなんやけど、どういう方向で進めていったらええんやろ。『外科室』やったら、わかりやすいねんけど」
女学生のころ、いちどすれ違っただけの学生に恋をして、その青年が執刀医となった夫人。
麻酔をかけられたら、うわごとで彼への想いを口にするかもしれへん。ふたりの間になにかがあったわけやない。ただ、互いに好意を持っただけ。その秘密を死んでも守ろうと、麻酔を拒んだ夫人の意志の強さ。
わかりやすくはあるけれど、卒論のテーマにするにはあまりにも短く、まとまりすぎとう。
もう五時に近い。窓の外に目をやると霧みたいな雨がオーガンジーの布をふわりとかけたみたいに降ってきて、すぐ外に植えられとう紫陽花の青やらピンクやらの花を静かに濡らしとった。
一階の教室やから、湿った土や敷石のにおいが強い。ふと、きつい、とてもきつい柔軟剤の香りが鼻をかすめた。雨のにおいを凌駕するほどの濃さ。
「ああ、探したんだ」
においの塊は、せんぱいやった。
だぼっとしたリクルートスーツに、いつものリュックではなく就活生がよくもっている四角い鞄。中学生が親のスーツを着せられたみたいやった。
そうか。中学生にはチェックのシャツやパーカーは似合うけど。スーツは年相応の見た目やないとあかんねんな。
せんぱいが近寄るたびに、床にぺったりと濡れた足跡が残る。
「面接やったんですか?」
「いや。筆記試験を受けに行っていた。けど、わざわざ行く必要もなかったかもしれないな。電車に乗って出向いてやったのに、自宅で受けてもいいらしいし。あーあ、無駄足だったよ、徒労だね」
カバンを机において、先輩は椅子に腰をおろした。スーツの生地がしめっとうせいやろか。昔かいだ雨の日の制服のような、獣の毛のようなにおいが鼻をかすめた。それも一瞬のこと、柔軟剤に上書きされてしもたけど。
ゼミは一緒やないから、よううちのおる場所がわかったなぁとのんきに考えとった。
「何それ」
「本です」
「見れば分かるよ。バカにしてるの? 何の本か訊いてるんだ。そんな気の利かない返事がよく出来るね、信じられない。若し面接だったら、一発で落とされるよ。ああ、君はまだ就活なんてしたこともないから、面接も経験がないんだろうね」
「面接はしました」
せんぱいが片方の眉をあげて、わたしを凝視した。椅子が床にこすれてぎぃっと音を立てる。前のめりになったせんぱいの目は充血して赤い。
「何の面接。はーん、漸くバイトをする気になったのか。どこ? コンビニ? まぁ君にはその程度じゃないと勤まらないだろうね。コンビニならマニュアルがあるんだろ? ぼくは腕力をつけたくて弁当屋に行ってるけど、何処へ行っても煩いパートのおばさんばかりだからね。その点、女はいいよ。このへんでも女のバイト募集は多いし、こんなバカでも女ってだけでちやほやされるんだからね」
「いえ。インターンの面接です」
一瞬、沈黙が教室を支配した。
それまで雨の音なんか聞こえへんかったのに、静かにおりてくる雨をうけて、紫陽花の葉がこすれる音を聞いた気がした。
あかん。これ正解やなかった。
うちは夏休みにインターンに行く企業の面接を、このあいだ受けてきた。期間は五日間。中小企業やけど、取引先が官公庁で安定してる。
同級生らは大手狙いで、インターンにいくのも倍率が高いみたいやけど。うちはすんなりと決まった。
せんぱいの右の目元がひくひくとひきつってる。なにかを言おうとして開かれたうすい唇は、音を形づくる前にすぐに閉じられた。
君も俗物か。
ほんのわずかな唇の隙間から、ため息とともに声にならへん言葉が聞こえた気がした。
「せんぱいは、卒論はなににしはったんですか?」
これ以上、インターンの話はせぇへんほうがよさそうや。うちが機転を利かせて話題を変えると、せんぱいの表情がゆるむ。
こんどは正解。
ほんのすこしでも正しいやりとりから外れたらあかん。空気を読んで相手の表情から雰囲気を察して、うちはそういうの得意やないから間違わんように細心の注意を払って。
声音の変化も、言葉の端々にあらわれる険もいちはやく察知して。予想される返事とちがうのんがでてきたら、それは会話が弾まへんきざし。接待、接待、お接待。せんぱいみたいな人は機嫌を損ねさせたらあかんねん。
「追放ものの小説」
「は?」
間抜けた声が出た。
「知らないの? ウェブ小説だよ。未だにいるんだね、時代遅れの奴が。異世界とかざまぁとか、女子には悪役令嬢が人気があるけどさ。無料で連載している小説が、書籍化するなんてよくあることじゃないか。ふーん、書店でぼくが買ってるのを見たじゃないか、それすらも覚えていられないほどバカなのか。 例えば無能な勇者がパーティを追放されて、ああ、このパーティは踊るやつじゃないからね。けれどその勇者がいたからこそ、パーティの仲間は生き延びてこられたのに、勇者がいなくなって苦境に立たされて、初めて彼の価値を知るんだ。つまり本当に無能なのは勇者ではなく、彼の才能を見抜けなかった仲間ってこと。世間でもよくある話だよね。それからワンオペの話もある。ワンオペレーションのことだよ、分かる? 会社のシステム管理をたった一人の社員に任せる企業の話でさ、もう耐えられないと辞めたら会社が傾いて、彼の他に代わりはいない、どうか戻ってきてくれと社長が懇願するんだ」
ほかに代われる社員がおらへんって。それって会社としてどうなんやろ。だれか一人が抜けても、ちゃんと仕事はまわらんとあかんのとちゃうやろか。
けど、うちはアルバイトすらしたこともないから、頭に浮かんだ疑問を口にすることはできへんかった。
「でも現代文学にしても、ちょっと卒論のテーマにするにはどうなんでしょう」
あ、接待を忘れてしもた。
せんぱいがあまりにも早口でまくしたてるもんやから、うちまで抑制がきかんようになる。
ここは「そうなんですか。さすが、詳しいんですね」が正解やったのに。
「卒論に向かないって何を言ってるんだ。今やウェブ小説は市場の半分は占めている。いや、もっとかもしれない。もう普通の小説は遅れてるんだよ。とくに追放モノがいいね。最初に不遇な主人公が追放なり、不当な婚約破棄を言い渡される。勿論ライバルに陥れられるんだ。無実の罪を着せられて。其処まではテンプレとして大体共通している。其の後は新たな仲間を作って冒険に出たり、異世界転生とかも多かったね。何をやっても上手くいかない友人も殆どいない、ぱっとしない主人公が事故や事件に巻き込まれて死んで、異世界に生まれ変わるんだ。其処で生前に持っていた知識で神の様に崇められる。婚約破棄なら、公衆の面前で婚約者がほかの女を選びヒロインが惨めに捨てられて、其の後に隣国の王子や皇太子に見初められて結婚。若しくは自由になって野菜を栽培するスローライフ。冒頭は似通っていても、多種多様な物語世界が広がっている。他には前世で裏切られて失脚して、処刑された主人公が何度も何度も生まれ変わって、やり直すんだ。今度こそは殺されずに上手く難を逃れる為に。相手に復讐する為に」
うちもまったく知らんわけやない。
異世界やゆうても、児童文学やら翻訳ものの壮大やのに緻密に世界観がつくりこまれたファンタジーやのうて。あくまでもゲーム風の世界。勇者とか魔王とかがおる設定や。
悪役令嬢は紗代ちゃんに勧められて読んだことがあるけど、すぐに挫折した。
風景の描写が「中世風の町」とか「よくある港町」「にぎわう市場」で済まされとって、文字数が多いわりになんにも伝わってこぉへん。
楽しそうに語る紗代ちゃんには、言われへんかったけど。せんぱいは国文のひとやから、話せるよね。
これ、空気読めてるやんね。
「せんぱいは『中世風の町』とか『よくある港町』って書いてあるん、どう思いますか?」
「何か問題でも? 君はファンタジー世界に文句が有る訳じゃないだろうね」
眼鏡の奥からぎろりとにらまれる。
もしかして外してしもたん?
「いえ、その。どんなふうな町なんか、建物は石でできとんか、木造なんか。道は石畳で舗装されとんか、それとも土のままなんか。港町やったら、帆船が立ち寄って交易が盛んなんかとか気になりませんか」
「これだから」
はっ、とせんぱいが吐き捨てる。
「君、古い文学ばかり読んでるんじゃないだろうね。昔はテレビも動画もない、発信手段が書籍しかない。旅に出るにも今の様に気軽にという訳にはいかない。だから、どうしたって見知らぬ地域の事をだらだらと旅行案内の様に書かざるを得ない。遠出の出来ない庶民の為に、見た事もない場所がどんな風であるかを教えてやらないといけないんだ。つまり、情景だの風景だのの描写は余分で冗長だ。其処を省いたって本筋には何ら影響はない。君はあれか、旅行した経験も無くて何も知らないのか。可哀想に。沖縄なら沖縄の風景。日本海なら日本海の漁港。簡潔な言葉で事足りるのに、世間知らずはつまらない事ばかり気にするんだな。哀れでならないよ」
うちは言葉をうしなった。
旅行はしたことある。
子どものときは、家族でハワイになんどか行った。バリとかオーストラリアも。
おばあちゃんが「もう飛行機にながい時間のるんはしんどい」ってゆうから、いちばんよう行ったんは沖縄やった。
白い珊瑚のかけらで敷かれた道に、昔ながらの漆喰で赤瓦をとめた家が並んでる竹富島。ほとんどの観光客は泊まらんと石垣島に戻るから。日暮れてからはしんと静かで、お客をのせた水牛車ももう見ぃひん。
月影が、白い道を照らして。どっかから三線の音がかすかにして、檸檬色の光が道に満ちる音すら聞こえてきそうやった。
冬でもぬるい風に、満開のブーゲンビリアがたわわな花をゆらしてて、黄色や赤のハイビスカスも咲きほこっとう。海の色はアクアマリンをとかしたかのよう。
そういう風景やら温度、湿度を書いてあるんは、今ではもう小説としておかしいんやろか。作家さんというフィルターを通して、見たものを表現してほしいと思うんは時代遅れなんやろか。
「けど……市場とか、気候によって並ぶもんもちゃうやろし。露店の雰囲気なんかも」
勇気をだして口にしたけど、むだやった。
「ふぅん。ジャガイモやトマトの件を言いたいの?」
なんで急にジャガイモとトマト?
べつにその二つに限定したわけやないけど。
「多いんだよね。小説の感想でもそういうの。そもそもさ、何で近世ヨーロッパじゃなくて中世風ヨーロッパを舞台にするか分かる?」
「いえ」
「此方の世界で死んで転生しても、其処が近世なら技術も学問も発達してる。つまり主人公は無双出来ない訳だ。いいかい。読者はね、すかっとしたいんだよ、爽快感を味わいたい。主人公に自分を重ね合わせて、不遇で不運ばかりの世界を抜けだして誰からも必要とされる重要人物になりたい。その為には無教養な中世がいい。どうして生まれ変わった先でまで、人間関係で苦労しなきゃいけないんだ。筆記テストでぼくを落とした奴らだって、此処が現代でなければぼくに太刀打ちなんてできやしない」
けどここは、現代の日本やし。
「君みたいに細かい事を言う輩はごまんといるんだ、悪寒がするね。これはウェブで公開されている小説の感想の話だが。トマトもジャガイモも南アメリカ原産なので、この時代にはまだヨーロッパには入っていません。おかしくないですか。とかね」
「異世界ですよね。そもそも南アメリカもヨーロッパもあらへんんとちゃいますか」
はっ。とせんぱいは洋画にでてくる俳優のように両手を上げて肩をすくめた。
「ほら来た。全く興醒めだよ。フィクションだよ、そんな事も分からないの?」
せんぱいの言うとうことはまっとうそうに聞こえて、まったく理屈がとおってへん。
べつにウェブ小説で卒論を書きはるんは自由やし、もうどうでもええことに思えてきたけど。
誰からも称賛されたい、無双というのんをしたい。せやのに努力はしとうない。いまの知識だけもって、英雄になりたい。
ぎょうさんの異世界小説がつぎつぎと発刊されて、それぞれの主人公の数だけ、ありえへんほどの異世界が用意されてて。でもどれもよう似通ってて。
一冊読んだら次。また別の一冊を読んだら次。
人生だけやのうて、生活そのものも転生してるようなもんや。
最近読んだネット小説で、おもしろいのんがあったわ。という紗代ちゃんの話を思いだした。
紗代ちゃんがゆうてたんは、先輩のいうウェブ小説とおんなじようなんやろ。
なんでも主人公が飛ばされた(これは転生やのうて、転移っていうらしい)世界は、お肉に味をつけんと焚火で焼いとって。けど、主人公は塩で味をつけてお肉を焼いたら、天才だと称賛されたという話やった。
――おかしいやろ。現地の人ら、塩分不足で熱中症とかにならへんのかな。しかも主人公は海水から塩をつくったり、岩塩を採掘するわけでものうて、塩湖があんねん。ふつうそこの塩の結晶をつかうやろ。まともな小説もあるねんけど、素人さんが書いてるわけやからおかしいのんがようさんがあるわ。
くくくっと、さっき飲んだばかりのはちみつ紅茶を吹きださんように気をつけながら紗代ちゃんは
まわりの能力をあえて低くすることで、ふつうの、ごくふつうの知識をとてつもなく尊いものとする書きかたを、せんぱいはどう思てんのやろ。
ありのままでええ。がんばらんでも、そのままで素晴らしい。その能力を理解せぇへん相手が悪い、世間が悪い、社会が悪い。そういう考え方って、ルサンチマンってゆうんとちゃうやろか。
訊いてみたいと思たけど、お接待の空気が「訊かんほうがええ」ってささやいた。
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