§005 浮霊
座標の地点を訪れると、そこは決して《湖の底などではなく》、湖から少し離れた陸の上だった。
「なんだ、おぬしの地図は当てにならないな」
「仕方ないだろ。以前、この地を訪れた際は、見えない壁に阻まれてまともな測量ができなかったのだ。だから、既存の地図を元にそれっぽく描いただけだ。私のせいではない」
「……まあ、そうかもしれないが」
そうして、風月は座標の指し示す地点。
そこに鎮座するものに、瑠璃と風月は視線を向ける。
「墓だな」
「ああ、墓だ」
座標の指し示す地点にあったもの。
それは『琉駿』の名が刻まれた墓だった。
「先ほどの物書きの墓で間違いないようだな」
「ああ。して、浮霊は?」
普段は冷静沈着な雰囲気の強い風月だが、さすがにこの状況では何かしらの感情が生じているのか、若干ながら勇んでいるようにも見える。
瑠璃は風月の言葉に、ゆっくりと頷いた。
「いる。男の浮霊だ」
質素な衣を身に纏った青白い顔をした男。
年齢は三十代半ば。物書きらしくやや猫背気味で、落ち着いた雰囲気を纏っている。
何より目を引いたのは、首にはこの質素な身なりには似つかわしくない三日月型を宿した琥珀の首飾りをしているところだろうか。
「浮霊にしては、かなり鮮明に見える。現世に相当の未練があるのだろう」
「私には見えないが、飛燕の報告によれば、そなたは自身の感覚を共有できると聞いた。そうすれば、私にも浮霊が見えるようになるのか?」
「一時的に……ではあるがな。浮霊を見る覚悟は?」
「無論」
風月のいつになく真剣な表情に若干の違和感を覚えたものの、瑠璃は以前に飛燕に施したのと同様の詠唱を唱える。
「ほら、見えるようになっ……」
「……そなたが琉駿か」
瑠璃の問いかけを遮るように、風月が一瞬このような声を漏らした。
その声はまるで旧知の友人に再会したような哀愁とも憐憫とも取れる、不思議な優しさを包含したものだった。
そんな違和感に瑠璃は風月に問う。
「おぬしはこの者と知り合いか?」
「いや、今日初めて会った」
そうか。では少し聞き方を変えようか。
「おぬしは浮霊が恐ろしくないのか?」
「恐ろしい? まさか。彼らだって好きで浮霊になっているわけではないのだろう。この世に未練を残してしまったがゆえに黄泉の國に昇ることもできない存在。そんな悲しい存在に恐ろしさなど感じるわけがない。叶うなら、未練を成就させてあげたいとすら思うよ」
その言葉はとても数字だけに問われた男の言葉には思えなかった。
今までの風月の印象からかけ離れた言葉に瑠璃は思わず目を見開く。
(もしかしたら、こちらがこやつの本性なのかもしれないな……)
この浮霊に風月が何かしらの思い入れがあるのは確かだったが、浮霊の未練を成就させてあげたいという気持ちは瑠璃とて同じ。
今は目の前の浮霊の対処を優先しよう。
瑠璃は浮霊に一歩近付くと、その声に耳を傾ける。
「(……琥珀)」
「琥珀と言っておる。この首飾りのことだろうか。おぬし、何か思い当たることは?」
「……ある。父上の死んだ妃の名だ。琵琶宮の妃、『琵琶妃』と言えばそなたにもわかるだろう」
「……ああ」
琵琶妃にはさすがに覚えがあった。
確か絶世の美貌を見初められて後宮に取り沙汰されたが、帝の正妃である后妃様から度重なる嫌がらせに合い、それに耐えきれなくなった琵琶妃は自ら毒を煽ったと。
そこまで話した瑠璃の言葉に、風月は更に言葉を付け加えた。
「そこまでは一般に知られている話だ。だか、実は琵琶妃には子供の頃からの許嫁がいたのだ。名は知らぬが、おそらくこの浮霊こそが琵琶宮の許嫁だったのだろう」
「なぜそう思う?」
「この者の小説が実話だと仮定すれば合点がいく」
「おぬしはほとんど書物には目を通していなかったと思うが……本当にそれだけか?」
その問いにわずかに逡巡した風月だったが、観念したかのように、懐から一つの首飾りを取り出した。
それは墓に立つ浮霊の首から下がっているものと同じ琥珀の首飾りだった。
「それは?」
「私が子供の頃、琵琶妃から託されたものだ」
「託された?」
「ああ、琵琶妃は早くに母を亡くした私を大切にしてくれた第二の母のような方だったのだ。そんな彼女は私に言ったのだ。自分には許嫁がいたが、それは叶わぬ恋だった。ただ、自身の気持ちを言えぬまま別れてしまったのが唯一の心残りだったと。しかし、自分は妃であり、もう後宮を出ることは叶わない。そこで、彼女は昔から放浪癖のあった私にこの首飾りを託したのだ。もし、自分の許嫁に出会うことがあったら、この首飾りを渡してほしい。願わくば『愛している』という言葉を添えて……と」
そこまで話すと風月はスッと視線を上げて、男の浮霊を見た。
すると、男の浮霊も何となくこちらに視線を向けたような気がした。
「あの日から私はこの首飾りを肌身離さず持っていた。どうやらそれも今日で終わりのようだな」
そうして、風月は浮霊に近付くと、首飾りを差し出した。
「遅くなってすまなかった。これは琥珀の首飾りだ。彼女はそなたのことを心から愛していた。それだけは決して嘘偽りのない真実だ」
次の瞬間――風月の持っていた首飾りが目を覆うほどの目映い光を放って発光した。
「うっ……」
瑠璃は思わず目を腕で覆う。
しかし、どうにか薄ら目を開け……光の中で確かに見た。
そこに立つのは、純粋無垢な微笑みを湛えたうら若き少女。
その傍らには、同じく無邪気な笑みを浮かべる年若き少年。
瑠璃にはこの二人が誰なのかがすぐにわかった。
これは、二人が引き裂かれる前の、琥珀と琉駿だ。
二人の未練は既に成就したのだろう。
姿は次第に揺らぎ、発光とともに薄らぎつつある。
「……琥珀」
そう呟いた風月の瞳からは一筋の涙が零れていた。
しかし、風月は耐えた。
黄泉の國へと昇ることこそが、二人の幸せであることがわかっているのだ。
手を伸ばすこともなく、声をかけるわけでもなく、唇を噛みしめつつも、只淡々と二人が天に昇るのを見送った。
けれど、二人が消えるその瞬間、瑠璃は確かに聞いた。
「(……ありがとう、風月)」
その声音は子を想う母のものに似た、とても優しい声音のものだった。
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