九輪
ため息ひとつ、どこかで響く。
「大人になってしまったな」
髭面の中年男が酒場でひとり。
遠く昔、少年の頃。
自分の見る夢はすべてが現実で、現実は自分の見る夢だった。
美しい羽の妖精に、空を飛べる魔法の粉。
狂暴なワニの海に、強く卑怯な海賊。
けれど、怖いものなどなにもなかった。
勇気と友さえ隣にあればなんでもできた。
どんなに辛いことがあっても、月が空に上がる頃にはすべて笑い話。
みんなで笑って、おやすみなさい。夢の中でまた冒険をしよう。
そんな日々がずっと続いた。
ずっとずっと変わらず、そうあった。
…ぼくだけは。ぼくだけが。
隣の君は?どうして、ため息をついて疲れた顔をしているの?
なんで冒険をやめて、夢の中まで苦い顔をしているの?
ずっとずっと解らなかった。
そのうちに、隣の君とあの子達は、ぼくの前から居なくなる。
ひとりは嫌だ。寂しいから側にいて。
みんなが隣にいてくれなくちゃ、ぼくは楽しい夢を見られない。楽しい明日を生きられない。
だからどこかの知らない世界中の子どもたちを、ぼくの友達にして、このネバーランドに連れてきた。
ずっとずっとそうしてきた。
きっとずっと続くと信じていた。
それがいつ始まったのかは解らない。
けれど、いつの間にか空を飛ぶことも、ワニの海の海賊との闘いも、夢の中の大冒険も、何もかも。
「楽しい」と、心から思えることがなくなった。
世界中の空を魔法の粉で飛ぶことは、億劫になった。
冒険の果ての危険は笑い話には出来ず、疲労として積み重なった。
喜怒哀楽。全部の感情がぼくの中で錆び付いていく。
これはなに?ずっとずっと解らないまま、数年経った。
ある日、覗いた鏡の中を見て、久しぶりに大きく驚く。
「ああ、君じゃないか」
ため息をついて疲れた顔して。冒険をやめて夢の中でも苦い顔した、いつかのあの子達と同じ顔がそこにある。
「ああ、そうか。ぼく…僕は大人になってしまった…」
薄暗い酒場のカウンター。
眉間に深い皺を刻んだ、髭面の中年男がひとり安い酒をあおりながら、グラスの氷を何気なく揺らす。
「大人になってしまったな。ただの大人になってしまった…」
男のひとりごとをたまたま聞いてた酒場の店主が、豪快に、けれど苦く笑って言葉を返す。
「"ただの"なんて言ってくれるな。元ピーターパン。二代目フック船長?」
店主の言葉に苦く笑って、男は安酒をひと息に飲みほして、ため息ふたつ。
大人になって良かったことは、こうして安い酒を「うまい」と思えることくらいだな。
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