第2話
山のなかのちいさな空き地で、
町であそべば、怖い顔の兵隊に、殴られてしまうおそれがあったから、山に入っていた。
兵隊は銃をもっている。市民に撃つことはないが、時にうつけな者がいると、銃身で殴りかかってくる。
現在戦況はかんばしくなく、町全体に暗い雰囲気がながれている。
その点、山はのどかであった。
山鳥がなき、妹は学校で習った歌をハミングしていた。
兄が曲名をきくと妹は「しらん」といった。
山鳥がはばたき、鞠が、おちた。
「お兄やん、どした? ずっととおくのほうをみて」
空太はどこかをみていた。ちかくの水たまりにいたカエルが、心配そうに、空太をみあげている。
「私はすこし不安なのだ。私もいずれは戦争にいくかもしれない。こうして遊んでいるあいだにも、だれかが死んでいるのだ」
妹はだいじょうぶだいじょうぶと明るい声でいう。空太のからだはひょろひょろで、よくからかわれていた。運動音痴であり、鞠つきだって、妹がしているすがたをながめるだけだ。お兄やんに銃もてるわけない、銃だって高いんだから、使いこなせる人にもたせるよ、と妹はケラケラと笑う。
「それなら……私はデコイになるかも」
「でこい? オデコのこと」
「ターゲットをおびきよせるダミーのことだ。そうだな、雨をしのぐための傘、といえばわかりやすいか」
「最近、黒い雨しかふらへんね。お兄やんがちいさかったころ、透明な雨、ふってたんやろ」
「あぁ。きれいだった。夕陽がよく映える日にふれば、虹という七色の橋が空にかかった。私は、母さんの背で、それをみた。その時はまだ戦争はなかった」
「うちもみたかったなぁ」
空太は、よしておけばいいのに、すこし、鞠をけってみたくなった、といくらか鞠をけってみた。
二、三度けると、やはり、風につれさられて、藪のなかに鞠はきえていった。
妹は「もう~!」とかわいらしく悪態をつき、赤い着物のすそをはためかせながら、鞠をとりにいった。
そういえば――。
あたりには、黒い粉塵がただよっている。
妹が鞠にとりにいく間、空太はおおきな岩にすわりこみ、昔、庭にあそびにきた黒猫のことをおもいだした。人によくなつく、愛嬌のある猫だった。
妹は大層かわいがり、サンマや牛乳をあたえていた。
寒い日には、ふとんにこっそりと抱き込んだこともあった。
ある日、黒猫は車に轢かれて死んだ。
骸をかかえて妹は泣いていた。
空太がみた時には、猫のかたちをしていなかった。
黒い雑巾であった。
その晩、妹はいなくなった。
数日後、お気に入りだった、赤の着物をボロボロにして、山のむこうから、妹は帰ってきた。
空太は山のちかくの池を捜索していたのだが、その時、赤い人影をみかけた。
それが妹であった。
空太は、おーいとよんだ。
深い夕闇があたりをおおっていた。夕闇が傷をおい、じんわりと血を滲みだすように、彼女の赤い影がうかびあがった。
まばらの暗闇がただよい、この世ならざる者……の気配を、妹はまとっていた。
山のむこうには地獄があり、妹は、鬼にかえられたのかもしれない。
—―どこにいっていた。
—―小山のむこうにあるお寺には、魂を解放してくれる和尚様がすんでいるの。ウチは、和尚様に、あの子の解放をお願いしたんや。
—―解放した魂は、どこにいく。
—―うちもいつか、あそびにいくゆーたんよ。
妹は衰弱していた。
目の焦点があやしい方向をむいている。
その晩、妹が眠りにつくと、母は妹のきていた赤の着物を、糸で修繕していた。
その後の三者面談の時、母は、妹のうわさを先生からきいた。
彼女は表面的には印象の良い生徒であるが、一部の生徒は、彼女に心酔しているようで、その好かれ具合が異常である、とのことであった。
妹は、一部の生徒を体育館の裏によび、縦笛をふいていた。
―—銀色の笛を買い与えたのは、お母さまですか?
先生は母にきいた。
—―この国の素材で作られたものではありません。あれは。
空太がつぎに目をひらくと、もう空はオレンジ色になっていた。
山にはさみしいメロディーがながれていた。町のスピーカーが、子どもたちを家に帰すため、音楽をながしているのだ。
鞠の音はきこえない。
妹はまだかえってきていなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます