❺彼氏じゃないから!

ここでお金を払うと個室へ案内されて、楽器の演奏やレコーディングをすることができます。店名にある「ミナコ」とは、生涯を朝霞市で過ごした伝説の歌手・本田美奈子のことです。アイドル歌手としてデビューし、晩年はクラシック音楽にも挑戦した、生粋の「アーティスト」でありました。

 38歳で亡くなるという短い生涯でしたが、人の輪を大切にし、朝霞の町を愛し続けた彼女の姿は今でも残っているのです。


 古い木の扉を開けると、人が2人並べるくらいの狭いカウンターがポツンと置かれておりました。そこでは水色のエプロンをつけた女性店員が1人、腕に顔を埋めてうたた寝をしておりました。頭につけた黄色いヘアバンドが、静かな呼吸に合わせてのんびりと動いております。

 心なしか、僅かにのぞくその表情がとても幸せそうに見えました。


 リルウはズカズカとカウンターへ近づき、頭を上から叩いてやりました。「起きなよ、ミリキア!」


 夢の中でいちご味の特製ジュースを楽しんでいたミリキアは、突然叩かれた衝撃で、そのグラスが割れたようにびっくりして、


「おうわぁぅ!?」


 と顔を上げました。夢がウツツか分からないまま、彼女の目はリルウとフェリの姿を確認しました。


「いくら暇だったって寝てたら怒られるでしょ、店の人に」


「そ、そうだよね!? あ、あたし、怒られちゃうかな……?」


 ミリキアは体が濡れた猫のように体を震わせながら、おそるおそるカウンターの後ろを振り向きました。奥に人影はなく、足音や回転式のイスが軋む音がちょっと聴こえるくらいでした。


「……気づいてないんじゃないか?」


「気づいてない? やっぱり?? あー、よかった〜……」


 フェリの冷静な声を聞いて、ミリキアは体を起こして嬉しそうに伸びをしました。


「寝てるのバレてなくて、ホントよかった!!」


 ミリキアの声はすっかり開放的で、玄関いっぱいに広がっていくようでした。


「なに? 誰が寝てるって??」


 すぐに裏でイスから立ち上がる音がして、スタスタとこちらへ歩いてくる音が聞こえてきます。


「バカでしょ、あんた! そんなにでっかい声出したらバレるって!!」


「だってだって、安心しちゃったんだもん!! ねぇねぇねぇ、お願いだから助けて2人とも!!」


「知らないっ。フェリくん、行くよ」


 リルウは笑いながら、フェリの手を引いてズカズカと部屋へと向かっていきました。


「ねぇ、ひどいよ! あたしたちお友達じゃなかったの……?」


 現れたのは店長で、その表情からは疑いの気持ちがにじんでおりました。


「ミリキアちゃん、珍しいね。いつもはシャキッとしてるのに」


「……ごめんなさい」


 言葉も出ないミリキアに、


「……まぁ、暇だもんね。逆に、よく起きていられるなぁ、って感心してたくらいだし」


 店長は顔のシワをいっぱい作りながら、笑いかけました。ミリキアの和んだ顔を確認して、店長はそのまま裏へと引っ込んでいきました。


 一方でフェリの手を引くリルウは、カウンター横の廊下を少し歩き、一番手前にあったドアに手をかけました。中はガラスによってぼやけておりますが、その上から大きく「1」と明朝体で書かれておりました。


「……受け付けは?」


「もうしてあるから」


「……ここで映画見るのか?」


「まぁ……3、4分のやつを何回も見る、って感じかな」


「……はぁ?」


 「映画を見る」というのがフェイクだとは、分かっていました。でも、「だったらこれからすることは何?」という問いには、答えられません。リルウはいつの間にか辛そうな素ぶりをしなくなり、元の屈託のない元気さを取り戻しています。


 フェリには、彼女の考えていることがさっぱり分かりませんでした。


 リルウはドアを開け、「ごめんねー、待たせちゃって!」と頭をかきながら中にいる連中に言い放ちました。


「やっと来よったで!!」


 袖をまくった筋肉質な男がドラムセットの前に座ったまま、仲間に呼びかけました。その声はまるで野生獣のようで、ネコやイヌがすくみ上がってしまいそうな恐怖感をかき立てます。


「おい、リルウ〜? まさかお前、2日間も練習サボって彼氏とデートしてたのか?」


 金髪で前髪を右側に流したお調子者が、肩にかけたギターをリルウに向けてツンツンつつくような仕草を見せました。


「バカ。彼氏じゃないから。代わりのボーカル」


「……フェリが?」


「……俺が?」


 緑チェックの上着を着て、ベースの弦をいじっていた男とともに、フェリは唖然としてしまいました。

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