星をみつけた男

神﨑公威

星をみつけた男

 霧の深い、クリスマスを過ぎた夜明け前、ひとりの男が同じ町内にある公園を行ったり来たりしていた。そして何やら呟きながら、スマートフォンに文字を打ち込み、すぐに消している。

「連絡が来なくなって一週間くらいがたつ。約束は覚えているだろうに」

 彼の約束の相手は、三ヶ月前にマッチングアプリ経由で知り合い、何も不自由なく互いに愛しあえるようになった恋人である。昨夕の七時が待ち合わせの時刻であった。しかし、連絡は途絶えており、当然の如く現れることもなかった。

 待ち合わせの時刻に来て、一度は帰ったものの、どこも居心地がよくない。だから、現れるはずもない場所で地縛霊のように待ち続けている。

 また書きかけては消している。年は二十歳を過ぎた具合で、しかしその若さ以上に、意思の強そうな、かたく引き結んだ唇は微かに震えた。冴えかえった朝の寒気は、未だ明けぬ夜の空気全体に染み徹って、霧の帳を作っている。手袋を湿っぽくし、手指を痛く凍えさせる。しかし冴えかえっているのは気温だけでなく、公園や、周りの道路もであった。クリスマスの熱気はしんしんと打ち消されている。若い男は、公園の自動販売機前に立ち止まり、短い睫毛と細い目を睨むように回し見る。そしてまたもう一方の公園へ向かい始める。

 男の体はがっしりとして、その筋肉のおかげか、時折、彼の近くを通り過ぎる薄いダウンを着た鼻の赤い酔っ払い達よりも薄着で居られた。この年のクリスマスは土曜日であった。

 彼が前日の七時頃に来たときは、暗いながらも、冬の夜らしく、青い大気に店の明かりがキラキラと輝いており、道行く人にとっては良い夜であった。しかし、表情をみるに、彼はそうでない。その澄んだ暗さは、彼の眼光の鋭さを増していた。揚々と頬を赤らめる往来の人々とは別に、彼の顔は始終青ずんでいた。三十分ほどして彼は彼女が働いていると話していた店へ赴いたが、姿は見えない。尋ねようにもあまりに忙しく人の多い店内で、自分と周りの温度差にいたたまれなくなり、彼は家へと帰り少し眠った。

 やがて目を覚ますと深夜二時を過ぎていた。都会と思えぬ、隣人の音もエンジンも何も聞こえない、息の詰まる霜のように一面に張られた沈黙を、韻の深い呟き声が破った。

「まだ夜は明けちゃいないんだ。遅刻かもしれない。遅刻かもしれない」

 スマートフォンを取り出して、過去のメッセージ履歴を眺めては震えている。暗い部屋のなか、画面の明かりが彼に息の白さを伝えている。底冷えのする寒さ、が身も心も痺れさせている。彼は時折、極めてつらそうに薄い唇をひき歪めた。そして、刻一刻と自分の体が何かに飢え、冷たくなっていくのを感じていた。

 そういった経緯で、未練や諦めた希望を引っ提げてやってきた深夜三時過ぎの公園である。七時に約束の人は来なかった。その事実と、正確にいえば八日に渡って来ず仕舞いの連絡とが、彼に惨めたらしく、柄にもない詩を書かせようとしている。

「俺の声が聴こえるのなら、答えておくれ。声に出さなくてもいいから」

 こう書いて、彼はまた消した。

 出会った最初の日は、まだ秋の始まったばかりの、女郎花(オミナエシ)が咲き始めた九月のことだ。

 秋はあまりに楽しく、足早に過ぎた。

 秋桜や女郎花の、か細い茎の植物が、建物のぽっかり空いてしまった火事後の土地に、みるみる育ちきって、花を咲かせていた。しかし、やがて種子をつけ、その頃には土地利用のためにすっかりまた片付けられてしまった。......長いトレーナーに袖を通し、上着を羽織り、やがてウシャンカを取り入れる若者が街に増えてくると、空気は澄みきり明け方には霜が生える。今年の秋の彼にとっては、赤い鼻をくんくんさせて愛を囁く季節が来るのだと思われていた。

 男は、その恋の相手を、生涯で最も愛した相手だと感じていた。生まれてはじめて、短く過ぎてしまう秋の豊かさや淡い光の美しさに、欠かすことなく、優しい気持ちになった。

 空気は鋭さを増し、冬になると、少しして彼女からの連絡は途絶えた。寒さは増してこたえた。街の明かりはいつも、寂しさに消え入りそうなほど朧気に、独り歩く彼を照らした。

 冬が来たのだ。......容赦のない、ひりひりと肌を割る風が吹き付け続けた。しかし、今はといえば明け方を迎える前の霧が立ち込め、多少の乾燥は緩和されている。草も葉もない真っ暗な、しかし霧が街灯の白い光を、広くぼんやりと保っている。

 男はとうとう歩くことも嫌になった。どうにでもなれと思った。肌に霜が降りたところで、身の痛みは心より弱い自信さえあった。

 彼は公園のベンチに寝転んだ。霜で丸くなった木の葉とは違って、まっすぐに伸びてベンチを覆い尽くした。

 目を瞑り、ぎゅっと唇を噛み締めていた。口のなかは塩辛かった。鼻水を飲み込んだ。

 ふと、霧が甘く匂った。ここへ来てからずっと鼻の詰まっていた彼は深く息を吸い込んだ。よく嗅ぐと、花の香りだというのがわかる。彼は、大きく目を見開いて、寝転んだまま、左右を見やった。

 道向かいに遅咲きの柊が植わっていたのである。白く柔らかい霧に隠されて、朧気な、小さな花が彼に冬の優しさを与えた。

 寝転んでいると、誰の救いもないはずだった、街中で独りぼっちの彼にひとつの光が見えている。

 この街で初めて観た星だった。たったひとつの、今にも消えそうな星だった。それを観ていた彼の顔は一層に歪み、唇を噛み締めきれずに、咳のように強く息を吐いた。霧が回転しているのがわかる。小さな嗚咽を洩らした。涙で視界は潤み、星は見えなくなってしまっている。それがまた悲しく思えて、ついに瞼から筋を引いて涙がこぼれた。

「また、また会えたなら」

 詩ではなく、星に願いを訴えた。

 何分経ったであろうか。涙の筋が乾いて残っている。重たいエンジンの音が聞こえてきた。大通りを曲がって、この公園のある住宅街へ入ってきたことが分かる。

 人の気配に、彼は身を起こして、平静を取り繕おうとした。道端に置かれたゴミ袋が、霜の割れる音と共に回収されていく。

 回収する人員の中にいる女性を見た。夜更け前に男に混じって忙しく働いている女性が、彼女に見えた。

 霧の幻覚であろうか。彼は、赤い目を更に擦って、晴れるはずのない霧を払おうとした。次第に清掃車は近づいてきた。ライトが眩しく、彼からはうまく見えない。しかし、女性とおぼしき人が立ち止まったことは分かった。

 彼は、咄嗟に立ち上がった。

 車のライトを逆光に、女性が彼に向かって歩いて来る。他の従業員達は肩を回したりして過ごしている。

「どうしてこんなところに!」

 あらゆる霜を砕く勢いで彼は、破裂のような声で叫んだ。近づく彼女の顔を見ると、なにか言いたい風情で、けれど何かを言えば声をあげて泣き出しそうだった。強く唇を噛み締めているが、涙はぼろぼろと溢れ落ちていた。かじかむように歯を震わせながら、車のエンジンにかき消されそうな声音で

「ごめんね」

 と彼女は言って、また唇をひき締め、目を伏せた。

 男は、いま自分がどんな顔をしているのかも分からぬうちに、作業着姿の彼女を抱き寄せた。しばらくして抱きしめたまま、様々な感情を抑えようと必死な震える熱い声で、彼は問うた。

「いいんだ、いいんだ。会えてよかった。けどどうして、君がこんなところに。どうして、連絡もなく」

「ごめんなさい。ごめんなさいね。仕事のこと嘘ついていて、あの通りの店じゃなくて、これが仕事なの」

「そんなの......。俺は気にしちゃいない。俺のことは嫌じゃないのか」

 彼女は今までにないほど、彼を強く抱き締めた。ライトの向こうで、誰かが笑っているのを感じたが、彼は気にせず頭を撫で返してやった。

 空は少しずつ明るくなってきていた。あのとき小さく輝いていたはずの星は、今はもうない。柊の花の香りも、熱い息のせいで彼に届くことはなくなった。

 星は願いを叶えて去ったのであろう。

 これを機に、彼らはまた付き合うこととなった。しかし、春が来る前に彼らは別れてしまった。何があったというわけでもなく、恋心が終わりを迎えただけである。そして彼は別の人と違う恋をしてみて、苦しくなると、また星に願い、全てが繰り返される。その感情の起伏は、彼にとってそんなに悪くないものであろう。動画配信サブスクリプションの中にある、知らない映画みたいに。

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星をみつけた男 神﨑公威 @Sandaruku

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