誘惑の意味
三鹿ショート
誘惑の意味
私の手首を掴むと、彼女はそのまま、自身の胸部へと移動させていった。
柔らかな感触に驚いていると、彼女は笑みを浮かべながら、
「あなたが私に乗り換えるのならば、これ以上の行為に及んだとしても、文句を言うことはありません」
私は、生唾を飲み込んでいた。
***
彼女は、私の恋人の妹である。
本当に私の恋人と血が繋がっているのかと疑ってしまうほどに、彼女は美しかった。
恋人に妹が存在していることも知らなかったために、何故紹介してくれなかったのかと問うと、
「妹を見ることで、あなたの心が移ってしまうと考えたのです」
不安そうな表情を浮かべる恋人の肩を強く掴むと、私は首を横に振りながら、
「きみを裏切るわけがないだろう。私は外見できみを恋人に選んだわけではないのだ」
恋人は目立つような人間ではなかったが、常に穏やかな笑みを浮かべ、他者を見下すような言動をすることもなく、街中で迷子を見かければ躊躇することなく声をかけるような良い人間だった。
私は外見に心を奪われたわけではなく、その人間性に惚れたのだった。
だからこそ、恋人の妹がどれほどの佳人であろうとも、私が靡くことはない。
そう思っていた自分は、どうやら行方不明になったらしい。
結局のところ、私は肉欲に逆らうことができない愚かな人間だったのだ。
彼女の衣服を剥ぎ、豊満な胸部に顔を埋め、時間も忘れて繋がり続けた。
行為の後、私は後悔の海で溺れていた。
落ち込んでいる私に対して、彼女は口元を緩めながら、
「これで、あなたは私のものですね」
私は、心中で恋人に謝罪の言葉を吐いた。
***
彼女との交際が始まったものの、かつての恋人との関係は終わっていなかった。
何故なら、彼女がそれを望んでいたからだ。
「私に心が移っていることも知らずに幸福そうに過ごしているところを見たいのです。それは、あまりにも滑稽ではないでしょうか」
その言葉を聞き、私は思わず問うた。
「姉のことを嫌っているのかい」
彼女は顎に人差し指を当てながら、首を少しばかり傾けた。
「嫌っているという表現とは、少しばかり異なります。私ほどの人間に恋人が存在していないにも関わらず、姉のような醜い人間が幸福そうに生きていることが、気に入らないのです」
そのような言葉を迷うことなく吐いてしまうところが、彼女に恋人が存在していない理由なのではないだろうか。
そのように考えたが、私がそれを口にすることはなかった。
***
恋人が私の裏切りに気が付いていると悟ったのは、私と恋人が交際を開始したという記念日だというにも関わらず、共に過ごすことを望まなかったためだ。
同時に、恋人は笑顔を浮かべることが少なくなり、私と過ごす時間も減っていった。
素直に謝罪し、彼女との関係を終了させるべきか。
もしくは、恋人と別れ、彼女との関係だけに集中するべきか。
それを相談したところ、彼女は溜息を吐いた。
「愚かな真似をすることは止めてください。あなたが姉との関係を終了させてしまうと、私は何を愉しみに生きていけば良いのか、分からなくなってしまうではありませんか」
分かっていたことだが、やはり彼女は碌でもない人間だった。
誘惑に敗北した私も悪いが、彼女のような人間と関係を続けていては、私に良い未来が訪れることは無いだろう。
私は、目を覚ますべきだった。
彼女と恋人の双方と関係を終了させ、恋人を裏切ったという自責の念を抱きながら、同じような過ちを繰り返すことがないように生きていく必要があるだろう。
私は彼女に別れを告げ、そして、恋人に対して謝罪した。
言い訳をすることなく、ただ私が愚かなだけだったと一方的に告げ、恋人の前から姿を消すことにした。
去って行く私に対して、恋人が声をかけてくるとは考えていない。
だからこそ、姿を消そうとしている私を恋人が引き留めてくれるなどということは、期待していなかった。
それから、新たな土地において、様々な出会いがあったものの、私が特別な関係を持つ人間は存在していない。
私は、そのような立場ではないからだ。
***
「今回の相手は、誠実といえば誠実な人間だったのではないですか」
「確かに、言い訳をすることなく、正直に謝罪をしてきたことは評価に値しますが、それでも私を裏切ったということに変わりはありません」
「そろそろ、このような選別行為は止めるべきだと思います。自慢ではありませんが、私に言い寄られながらも靡くことはない人間が現われることなど、無いと思いますが」
「そのような人間でなければ、私のような人間を愛するわけがないのです」
「人間的に素晴らしいのですから、そこまで卑下する必要は無いと思いますがね」
誘惑の意味 三鹿ショート @mijikashort
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