2019
隣で寝ている彼女を残して、気付かれないようにベッドを抜け出し、隣の部屋に入った透は、暗闇の中で、極力操作音を立てないように、そのカセットを再生して、イヤホンで聞いていたが、途中で再生できなくなってしまった。カセットを取り出してみると、ヘッドにテープが絡みついて、無理にそれを引っ張って取ろうとしたところ、テープが切れてしまった。続きを聞くことができる見込みは、ほぼ無くなってしまった。
これが柏葉均の声だというのか・・・・・・。明瞭で聞き取りやすい発音の葉子に対して、テープの中の男の声は、小さく、弱々しく、ほとんど聞き取れないくらいだった。
テープを途中までしか聞くことができなかったことは、残念ではあるが、立ち止まっていることはできない。すぐに次の仕事に取り掛からねばならない。
灯りをつけると、窓から光が漏れて彼女に気付かれるかもしれなかったので、手にしていたスマホの光を頼りに、壁にかかっているその絵に向き合った。
その顔は、やはりどう見ても、今の葉子にしか見えなかった。葉子の話の通りだとすれば、四〇年も前に描かれたはずだ。柏葉均という男は、何故未来の葉子を描くことができたのだろうか。彼女の証言の通り、柏葉という画家の、対象に対する眼力、あるいは洞察力が、桁外れだったのだろうか?
あるいは・・・・・・。
葉子の方が、この絵に合わせて、時間の経過とともに、自らの顔を『作り上げて』いったのではないかという、透にとっては、より恐ろしい考えが、思い浮かんだ。
そんな透の、驚嘆と畏怖を含んだ疑念を知ってか知らずか、絵の中の葉子は、まっすぐに彼を見ている。
吸い込まれるように、透は彼女の瞳を見つめていた。瞳に反射する光、写真で言うところの、キャッチライトも、丁寧に描き込まれている。最初に見たときには、そこまでは見ていなかった。この絵の完成度の高さと、圧倒的なオリジナリティに圧倒されて、呆然と見ていただけだったからだ。
絵が放つ強い光を感じ思わず眩しさに、透は思わず顔をしかめた。しかし、ここで負けるわけにはいかなかった。彼は再び、その目に向き合った。
次第にその明るさに目が慣れ、落ち着きを取り戻しつつあったが、原因不明の違和感を覚え、それを払拭できなかった。
違和感・・・・・・、それは、この瞳の中から生じているのではないだろうか?
透は絵にあと数センチで接触するくらいまで近寄り、その瞳を見た。遠くからだと、一様な白色でべた塗りされているようにしか見えなかったが、この至近距離から観察すると、微妙な色調を塗り分けていることが分かり、彼は自分のその新発見に驚いた。
しかし、その微妙な塗り訳が、単なる光の変化や揺らぎを表現したものではないことに気付いた。何らかの規則性、いや、具体的な形状を現しているように見える。
「あっ!?」
透は小さな叫び声をあげて、後ずさりした。
その瞳の中に描かれていたのは、柏葉均だった。彼は透を見据え、不敵な含み笑いを浮かべていた。少なくとも、透にはそう見えた。
透は壁から絵をもぎ取ると、何度も床に叩きつけた。
そして我に返ると、その絵は、額縁もろとも、原形を留めぬほどに、徹底的な破壊の犠牲となっていることに、透は初めて気付いた。
後ろを振り返ると、葉子が立っていた。
「見ていたんだね」
葉子は無言だった。
「僕のことを責めないの?」
葉子はゆっくりと透に近づいて、目の前に立つと、彼の体を優しく抱きしめ、透も彼女を強く抱きしめ返した。
「葉子、お願いがあるんだ」
「何?」
「僕を、殺してほしいんだ」
葉子は透のことを見上げて、ほほ笑んだ。
「やっぱり、貴方は私が選んだ人だったわ」
「どういう意味?」
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