2019
夕貴と会ったその日の夜中に、透は山荘に戻った。本当は明日以降に帰る予定だったが、一刻も早く帰りたくなったので、すぐに電車に乗り、駅に着くと、バスが来るまで一時間近く待ち時間があったのだが、それをバス停の脇を何十往復もしながら、待つしかなかった。葉子に連絡しようとも思わなかった。仮にしたくても、連絡のしようがなかった。山荘には固定電話がなく、スマホの電波も届かない場所だからだ。
最寄りのバス停に着くと、すでに日が暮れようとしていたが、二時間近い道のりを、歩いて山荘まで戻った。長い砂利道の未舗装路を、ひたすらひとりで歩く苦痛を、透はこの時初めて経験した。今日会った時には気丈にふるまっていたが、透にふられ、ひとりでこの道を歩いて帰った夕貴の失意が、少しだけなのかもしれないが、初めて自分のものとして感じられた。
山荘についた時には、既に漆黒の闇が広がっていて、その中に、海に浮かぶ漁船の明かりのように、山荘の窓から漏れる照明の明かりが、揺らいでいた。
部屋に入ると、朋子が居間で本を読んでいたが、透の姿を見ると、目を見開き、立ち上がって、彼に近寄った。
「どうしたの? こんな時間に。たしか、明日帰る予定だったじゃなかったかしら。歩いてきたの?」
透は無言で、いきなり朋子を抱きしめた。
「何かあったの?」
その後二人は食事を始めたが、その間、会話らしい会話はなかった。透は何を話せばいいか、考え続けていたが、葉子は彼のそんな気まずい思いを知ってか知らずか、悠然と構えているように見えた。透が話題を切り出したのは、食事が終わって暫く経ってからだった。
「今日、夕貴と会ったんだ」
「そうだったのね。この前、彼女がこちらに来られた段階で話がついていたのかと思っていたけれど、やっぱり貴方達二人だけでの話し合いが、必要だったのでしょうね」
葉子には、夕貴の妊娠の件、結局は狂言だったわけだが、それについての話をしていなかったので、彼女がそのように判断したのも無理はないと、透は思った。
「きっぱりと別れることにした。もう二度と会うことはないと思うよ」
「前にも言った通り、私は貴方の判断を尊重するわ。でも、貴方も寂しいでしょうね、恋愛感情とは関係なく。貴方にとっては、彼女は故郷と青春時代の象徴でしょうから」
「そうかもしれないけど、過去は捨てるよ、きっぱりとね」
「でも、彼女はもっと辛いかもしれないわね」
「まあ、そうだけど、でもそれは、仕方のないことなんだと思う。君と付き合おうと付き合うまいと、おそらく、僕と彼女は、いずれどこかの段階で別れていたんじゃないかな。今君が言ったように、彼女が僕にとって、故郷と青春時代の象徴だ、ということなら。それらは、僕には必要のないものなんだ」
「あら、そうかしら」
「なんだか、僕の言うことを信じていないようだね」
「いえ、そんなことはないわ。ただちょっと、昔そんなことを言っていた人がいたなと、思い出しただけなの」
「柏葉均のことだね?」
「ええ、そうね」
「この前、君の娘だという太田美南さんと話をしたよ。僕があの人と会っていたこと、君も知っているはずだけれど、そのことについて、君は何も訊いてこなかったから、僕も何も言わなかった。彼女は君の過去について教えてくれた、家庭を捨てて、若い男、つまり、柏葉均と駆け落ちしたことも。彼とそういう経緯で関係を持ったことは、その時初めて分かった。強い決意で、彼を選んだことは、すぐに理解できた。でも、そのこと自体を、どうのこうの言うつもりはない。僕の立場を教えて欲しい。僕はいったい、君にとって何者なんだ? 僕は、その人のスペアじゃないよ。なりたくないと言っているわけじゃない、なれないんだよ、どう転んでも」
「あなたがスペアだなんて、とんでもないわ。貴方は麦田透という人で、それ以上でも以下でもないわ」
「君は、あの絵に縛られているんじゃないのかな。いや、あの絵を描いた柏葉均に、縛られているんだ」
透はそう言いつつ、縛られているのは、寧ろ自分の方かもしれないと思っていた。
「何故そう思うの?」
「あの絵は、秘密の絵だ。誰にも知られてはいけない。だからこんな山の中の孤立した別荘の一室に密かに置かれていて、誰の目にも触れることがない」
「でも、貴方には見せたじゃないの」
「そう、それは君が、そう仕向けたんだ。僕にはあの絵を見せていいとね」
「たしかに、貴方にはあの絵を見せてもいいと思った。でも、それは貴方が私にとって、特別な存在になったから。私の全てを知る権利が、貴方にはあると思ったから。あの絵も、私の一部になっている以上、貴方が見る権利があるということ、ただそれだけよ、決して、彼のスペアなんかじゃないわ」
特別な存在・・・・・・。
目の前にいるのに、触れることもできるのに、愛することが許されない、それが、柏葉均のスペアではない、麦田透としての、『特別な存在』の定義なのか?
「君は悪い女だ」
そう言って、麦田は強引に葉子の腕を引き寄せ、彼女を抱き寄せると、葉子は抵抗もせずに、目を閉じた。
その時、透は決意していた、あの絵と対決するときが来たようだ。ただし、その前にもうひとつ、向き合わねばならないものがあった。それが、現在彼が所持している、太田美南から手渡された、あのカセットテープだった。
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