1979

夫に会った葉子は、その日の深夜に、均の待つ山荘に戻った。均は、絵画作成の部屋にいて、白いキャンバスの前に、石のように動かずに座っていた。

「ただいま。ごめんなさい、邪魔したみたいね」

「おかえりなさい。ちっとも邪魔じゃないよ。新作取り掛かろうとしていたんだけど、何も思い浮かばずにぼーっとしていただけなんだ。疲れたでしょ、夕食は? あ、いらない、そう、じゃ、お茶でも淹れるよ」

壁に掛けられた裸体画が、二人の会話を静かに聞いているように見えた。

ふたりは居間に移り、葉子は、均が淹れてくれた紅茶をいただいていた。

「今日、夫に会ったわ」

「そうなんだ・・・・・・。御主人のほうから、呼び出されたの?」

「ええ、形としては、その通りよ。でも、私も会っておきたかったから、ちょうど良かったとも言えるわ。私が家を捨てて出て行ったのは間違いないから、それに対しての後始末は、何らかの形で付けなければならないのよ」

葉子は自分に夫がいることを均に話した記憶は無かったが、彼が驚きもせずにその事実を受け入れているようであることが、意外だった。

「それで、彼は何と?」

「それが、たぶんあの絵が完成した日だと思うんだけど、その日にこの山荘の中に潜入して、私達の行動を、監視していたと言うのよ」

「ほんとに?」

「ええ、本当よ。そのうえ、私達の会話をカセットに録音したとも言っていたわ。でも、そんなこと、出来るのかしら。寝室の上の納戸に、十時間以上も潜んでいたって言っていたけれど、そもそも、あの場所に、物音ひとつ立てることなしに、そんな長時間動かずに潜んでいるなんて、考えられないわ。それに、出入りが困難だわ。わたしは、あの日の行動を思い出してみたけれど、たしか一歩もこの家を出ていないわ。貴方だって・・・・・・、ちょっと散歩に外出した程度で、殆どこの家を離れなかったじゃない」

「そのカセットテープを、どうしようと言っていたの?」

葉子は、修司と会った際の会話を、かいつまんで説明した。そのカセットを彼女の娘に渡そうという修司の発言については言うべきかどうか迷ったのだが、やはり真実は伝えた方が良いと考え、そのことも含めて、言われたことは、ほぼ包み隠さずに、均に伝えたのだった。

「で、そのカセットテープは、持っていたの?」

「ええ、持ってきていたわ」

「中身は聞いた?」

「いえ、彼は私に無理矢理聞かせようとしたけれど、私は拒否したの。そんなもの、聞きたくなんかないわ」

「そのカセットテープの、外装はどんな感じだった?」

「あら、面白いこと訊くのね。良くは見なかったけれど、透明のケースに、オレンジ色のラインが入っていたわ。日付の入ったラベルが張ってあって、絵が完成した翌日の日付になっていたわ」

「なるほど・・・・・・」

「それがどうかしたの?」

「おそらく、そのカセット、僕が録音して、それを御主人に送ったものだよ、ただし、日付のラベルは貼った記憶がないから、あとから御主人が付け加えたものだろうけど・・・・・・」

「え、それ、どういうこと?」

「つまり、その・・・・・・、御主人がこの部屋に侵入して盗聴して、それを録音したというのは、間違いなく作り話だよ。でも、御主人が山荘に来たのは、本当なんだ。絵が完成した翌日、僕が滝の水の行く先を追っていたところに、ちょうど姿を現したんだ。そして、僕たちの会話を密かに訊かせろという『要望』を僕に言ってきたんだ。ただ、僕としては、山荘は君のものだから、僕には許可を出す権限はないと言ったんだ」

「ごめんなさい、ちょっと、訳わからなくなってきたわ。何から訊けばいいのかしら。そうね、なぜあの人は、この家に潜入したなんていう嘘をついたのかしら?」

「それは、僕にも、本当のところはわからないな。ご主人に直接訊いていただくしかないけれど・・・・・・」

「そうなのね。まあ、そのことはいいとするわ。それで、貴方は何故録音なんかしたの? 彼に頼まれたから?」

「いや、頼まれてなんかいないよ。自分の判断で録音して、それを御主人に送ったんだ。何故そんなことをしたかといえば・・・・・・」

そこまで言って、均は沈黙した。

「ごめんなさい。貴方に理由を訊いても、意味ないわよね。それは絵のことで分かっていたはずなのに」

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