2019
「元気そうね」
いつものファミレスで、1週間ぶりに再会した夕貴は、思っていたより明るくて元気そうだった。今回は、透のほうから彼女に連絡を取り、会う約束をしたのだった。
「あ、まあ、そうだね。君のほうは?」
夕貴に対するその問いが、通常とは大きく異なる意味を否応なく含んでいることに、透は口に出してから気付いた。
「いい、とは言えないかな」
「そう・・・・・・」
ふたりの会話は早くも途絶えたが、自分の方から、例の話題を持ち出さなければならないと、透は焦った。雑談に逃げ込みたかったが、それでは呼び出しに応じてくれた夕貴の時間も無駄にしてしまう。決死の覚悟で、彼は夕貴の目を見て言った。
「夕貴、その・・・・・・、例の話のことだけど」
「あ、うん・・・・・・」
「自分なりにいろいろと考えたんだ」
「それで?」
「まずは君に謝らないといけない。本当に申し訳なかった」
そう言って、透はテーブルに頭をつけるギリギリまで下げて、そこで固まって動きを止めた。
「もういいわ、やめてよ、そういうの。そんなことされても、嬉しくないから」
しかし、透は頭を下げたまま、動こうとはしなかった。というよりも、動くことができなかった。
「そんなことより、私にどうしてほしいのか、言って欲しい。私が望んでいるのは、それだけだから。そんなことしたって、ごまかしているとしか、私には思えない」
そう言われて、透はようやく頭を上げたが、視線は下を向いたままで、最初の決意はどこへやら、夕貴とまともに視線を合わせることさえできないでいた。
「やっぱり、僕には育てることはできない。経済的な理由もあるけれど、でも、それよりも、気持ちとして、君とこれから一緒に生きていくっていうことが、自分にはどうしてもできなくなってしまったんだ」
長い沈黙の後で、夕貴が呟いた。
「残酷ね」
「本当に、謝るしかない」
「気持ちの問題っていうのは、やっぱり完全に葉子さんに気持ちが行ってしまった、ってことなんだよね」
「そうだね、自分は、彼女を選んだ、それに尽きる」
「あの人の、どんなところがいいの? それを教えて。この前会った時は、生きている意味が分かったような気がするって、言っていたけれど、それじゃ、あまりにも抽象的過ぎて、良くわかない。もう少しわかりやすく説明して欲しい」
遠くから雷の音が聞こえた。そしてまたあの絵が、脳裏に浮かび上がってきた。
「実は・・・・・・、その質問、必ず訊かれるだろうと思っていたから、自分でもうまくそれに答えたいと思って、あれこれ考えたんだけど、なんと言っていいのか、思い浮かばないんだ」
確かに、彼女と出会って、生きる意味が分かったような気がしてはいた。それは嘘ではなかった。しかし、それが、決して良い意味だけではないのだということも、十分に自覚はしていたが、夕貴には言わなかった。
「あの人、たしかにお婆さんだけど、穏やかで上品であることは、確かに認めるわ。でも、恋愛対象になっているかと言われれば、あれから色んな理由をつけて自分を納得させようとはしてみたけれど、やっぱり、どうしても信じられない。あの人のお金目当てなのかとも考えたけれど、貴方がそんなことをするような人じゃない、いえ、そんなことできるような人じゃないことは、私もよくわかっている。だからこそ思うけれど、理解できないことが起こることって、本当にあるんだね、でも、貴方が嘘をついていないことはよくわかった・・・・・・、つもり」
「ありがとう」
「私は、彼女に負けたってことよね。それを認めるしか、ないようね」
「勝ったとか負けたとかでは、ないと思うよ」
「気休めはいいよ、悲しくなるだけだから。私、頑張ってひとりで育てるわ」
「え、ホントに、あ、いや・・・・・・。勿論養育費は支払うよ」
「いいよ、そんなこと期待してないから。お金のこと期待していたら、貴方なんかと付き合ったりしないよ。私は、素のままの透が好きだった、ただそれだけ」
「でも、君のそういう言葉に甘えるわけにはいかない。やっぱり、自分ができることはしていかないと」
「フフフ・・・・・・」
最初夕貴は、笑いを堪えて、クスクス笑っていたが、次第にその堪えが効かなくなり、やがて声を上げてひとりで笑い出した。周囲の客が、笑っている彼女と、その対面で困惑しきった表情で座っている透との対比に、奇異な視線を向けていた。
「ごめんね、ひとりで笑い出しちゃって、でも、ちょっと可笑しくて、止まらなくなっちゃったんだ」
「何か、僕がおかしなこと言ったかな・・・・・・?」
「ううん、違うのよ。ごめんね、騙しちゃって。妊娠したっていうの、実は真っ赤な嘘なんだ」
「え?」
「ちょっと試してみようと思っただけなんだ。貴方のこと、困らせてみようと思っただけなの。悪く思わないでね」
「そ、そんな・・・・・・」
「でも、これでちょっとはすっきりしたかも。これが最後、もうふたりで会うことはないわ。嘘が嘘だったってこと、ホントに嘘じゃないから、心配しないでね。でも、葉子さん、なかなか鋭いよね。実はそちらに伺った時、私、確かに気分悪かったのよ、生理だったんだ。彼女、ちゃんと見抜いていたわ。私、自分の嘘がばれるんじゃないかって、ヒヤヒヤしちゃった。じゃ、さよなら、元気でね、これ、置いとくね」
彼女はそう言うと、席を立ち、千円札とテーブルに置いて、茫然と座っている透を取り残して、颯爽と店を出て行った。
ひとり店に残され、どのくらい時間が経ったのか、透は分からなくなっていたが、雷鳴が再びとどろいたので、我に返り外を見ると、激しい夕立が降っていた。
夕貴も、去ってしまった、もう二度と会うことはない、それは過去の感傷に浸るだけの十分な材料にはなるだろう。加えて、彼女のことを傷つけてしまったことについても、罪悪感が強かった。しかし、透としては、結果的には、過去に捕らわれる要素のひとつが無くなったことになる。そうだとすれば、もう一つの過去、あの絵に対して、決着をつけなければならないと、彼は決意した、あの山荘を支配する、柏葉透の影を追い払うために。
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