1979

夫である千代崎修司に電報で呼び出されて、葉子は都内の喫茶店に出向いていた。夫婦なのに家で話し合いができないような関係に、ふたりは既に陥っていた。

「遠くからわざわざ来ていただいて、ありがとうございます」修司は静かに、しかし葉子にとっては不気味に、言った。

「いえ、こちらこそ」

日頃は無口でぶっきらぼうな修司が、この日はやけにテンションが高く、饒舌だった。話の内容はそのほとんどが彼の仕事のことで、来年は大学に助教授として赴任できることが決まった、申請している科研費がすべて承認された、学会で特別公演に招待された、等々、一方的に話し続け、葉子はそれを黙って聞いていた。そして、それが一段落すると、葉子に顔を近づけて、小声で言った。

「ところで、若い彼との生活は、いかがですか?」

「ええ、まあ、特にこれといった変化は無いわね」

「変化がない、ですか・・・・・・。それは随分謙遜された仰りようですね、でも、そんなことはないと思いますがね。私よりも二〇歳も若い男と逃避行の挙句、山深い山荘での二人きりの生活ですからね、赤の他人が聞いたら、狂気の沙汰、もっと専門的かつ的確な言い方をすれば、多淫症もしくは色情狂による逸脱行為、ということになるでしょうか」

「今日の御用件を伺いたいわ」

「これは失礼、本題に入りましょう。三日前の夜、私がどこにいたと思いますか?」と千代崎修司は含み笑いを浮かべながら言った。

「さあ・・・・・・、それが何か?」

三日前の夜、自分はいったい何をしていたかを、葉子は思い返そうとしていた。たしか、透の絵が完成した次の日だったとはずだ。

「まったく気づいていないようですね」

「え? どういうこと」

「おや、興味を持ってくれたようですね。それは嬉しいな」

「もったいぶらないで、さっさと言ったらどうなの」

「しかし、そのような言い方をされるのは、心外だな。だって僕は何も悪いことをしていないんですよ。悪いのは全て、葉子さん、貴方じゃないですか。本来ならそんな態度など取れないはずですがね」

「そうね、それは貴方の言う通りでしょうね。謝るわ、ごめんなさい」

「まあ、いいでしょう。別に謝っていただきたいわけではなかったのでね。それでは本題に戻りますが、実は私も貴方の別荘にいたんですよ。仕事で多忙を極めている中でね」

「嘘よ、そんなこと、できるわけないわ」

「信じる信じないは貴方の自由ですが、貴方達が午前中に家を空けていた時に、潜入したんですよ。あの山荘の中の構造は、私も熟知していますからね。」

「あら、そうなの?」

「そりゃそうですよ、何度も行ったじゃないですか、家族三人で。私は、それほど行きたくもなかったですが」

「じゃあ、そうなのね」

「あまり驚いていないようですね。ま、それはいいとして、二階に納戸がありますよね、ちょうど、一階の寝室の真上に当たりますそこで何をしていたと思いますか?」

「さあ・・・・・・。でもまあ、盗聴、あるいは盗撮かなにかでしょ」

「その言い方、使っている言葉は悪いですが、たしかに、録音していたのは間違いありません。カセットテープが時間切れになるんじゃないかと、ヒヤヒヤしましたよ。結果的には、苦労の甲斐あって、貴方たちお二人の会話と、その痴態をつぶさに把握できました。音は、筒抜けというくらいに、その部屋まで聞こえましたよ。自分の物音が下に漏れないことの方に、寧ろ気を使いましたね。翌朝までその部屋に閉じこもっているのは、かなりの苦痛でした。トイレにも行けませんでしたから、なんと、老人用のオムツを穿いて頑張ったんですよ」

「かなりな悪趣味であることは、間違いなさそうね」

「貴方がどう思うかは自由ですので、私はそのことには言及しませんが、しかし・・・・・・、笑いをこらえるのに必死でしたよ」

「そんなに可笑しかったの?」

「ええ、可笑しかったですね。あまりにも予想外の展開だったし。彼の強がりかたがケッサクでしたよ。まるでいつもはこんなはずじゃないというハッタリの権化とでも言ったらいいのかなぁ」

「で、その録音したカセット、どうするつもりなの? 公表でもするつもり?」

均はニヤニヤしながら葉子を見つめていたが、その彼女の質問に答えるのに、必要以上の間を取った。

「まさか、そんなことする訳ないじゃないですか。僕は自分の楽しみのためだけに、苦労して、現場を押さえたのですから、他人は関係ありません。当事者は、私と貴方と、透君だけですよ。でも、僕も十分楽しませていただきました。だから、このカセットは貴方の記念にしていただこうと思って、今日持参したのですよ」

修司はカバンからウォークマンを取り出して、テーブルの前に置いたが、その中にカセットテープが既に入っていて、タイトルラベルに、19〇〇年〇月〇日と記載されていた。

「一緒に聞きましょうよ、きっといい思い出になりますよ」

「いえ、遠慮しておくわ。そのテープも、私は要らないから、持ち帰っていただいて結構よ」

「そうですか、それではそうさせてもらいます。今申し上げた通り、僕も、もう不要になったので、そういうことであれば、美南への誕生日プレゼントにしようかなぁ、と思っているんですよ」

「なんですって!?」

「あの子も母親に捨てられて、不憫な思いをしていますし、貴方の声を聞きたがっていますから、このカセットをあげれば、きっと喜んで聞いてくれるでしょう」

「子供を巻き込まないでいただきたいわ!」

「貴方は既に私に指図する権利を失っていますので、念のため。先程あなた方を色情狂の逃避行と言いましたが、結果としては、貴方だけが色情狂で、彼は、色情狂になりたくてもなれなかった、まあ出来損ない・・・・・・、いや、これ以上は彼の名誉のためにも、言わないでおきましょう。まあ、あの隔絶された別荘で、おふたりで心行くまで淀み切った生活を満喫していただいて、朽ち果てていただければ、私にとってはこれ以上の喜びはありあません。多分私は、今後貴方と会うことは無いと思うのですよ。ただし自分から離婚するつもりもありません。離婚したいのであれば、貴方のほうで動いてください。それじゃ、お時間いただいてありがとうございました。彼にも宜しくお伝えください」

葉子に背を向けると、振り返ることなく、吹っ切れたように颯爽と、修司は店を出て行った。

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