2019
今日は栗田夕貴が山荘を訪問する日だった。先日、彼女とふたりで会ったとき、彼女が葉子に会ってみたいと言い出したのだった。透はその要望を断り切れず、持ち帰って葉子と相談すると言って、その場を何とか収めた。
その後山荘に戻った透は、葉子にその話をしたところ、意外にも、彼女は快く夕貴の来訪を了承してくれたのだった。彼女に夕貴のことを話したのは、この時が初めてだった。夕貴とは高校の同級生で、大学に入ってから、交際していたこと、数カ月前に、関係が自然消滅したことを、出来るだけ簡潔、かつ明瞭に、彼女に説明した。しかし、妊娠の件だけは、言い出せなかった。
夕貴はひとりで、電車とバスを乗り継いで、遠路はるばるこの山荘までやってくることになった。ちなみに、透自身は、夕貴と東京で会ってから山荘に戻ってきた今回の移動に限り、ひとりで電車とバスで山荘に戻ったが、基本的には、この山荘での移動方法は、葉子の自家用車運転のみであり、それに頼り切っていた。彼は自動車免許を持っていなかった。
到着時間に合わせて、バス停近くに車を止めて待っていると、ほぼ定刻通りに、一台の路線バスが到着して、乗客がひとりだけ降りてきたが、そのひとりが夕貴だった。
バスから降りた夕貴は、初めて来た土地、これから会う見知らぬ葉子のことを考えているのであろうか、どことなく不安そうに見えた。
しかし、車から降りて駆け寄ってきた透を見つけると、彼女は、彼にしか認識できない程度の、硬い微笑みを彼に返した。
「わざわざありがとう。遠かったよね」
透はそう言って、笑顔を浮かべようとしたが、彼のほうも、顔がこわばってしまい、寧ろ奇妙な表情になっているのではないかと気になった。緊張と不安を感じているのは、夕貴よりも、自分自身なのかもしれないと、彼は思った。
「迎えに来てくれてありがとう。いえ、思ったほどでもなかったわ」
夕貴は薄いブルーのワンピに、広めのつばのストローハットを被っていた。足元はクリーム色のパンプス。高原のそよ風が、彼女のスカートのすそを、柔らかくたなびかせた。そのたたずまいは、清涼飲料水系のテレビCMに出てくるような、高原の中の美少女そのままのイメージで、この容姿であれば、見るものに、若さと清楚さ、瑞々しさを、否応なしに印象付けることができるだろうと、透は思ったが、寧ろそれが彼の精神的負担になっていった。
そんな夕貴が母親になろうとしている? 透にはその姿を想像することすらできなかった。
「こんにちは、初めまして、千代崎葉子です。遠くまで来ていただいて、嬉しいわ」
葉子が透の背後から二人に近づき、夕貴に対面すると、彼女は夕貴に両手を差し出し、夕貴が右手を差し出すと、その手を両手で握りしめた。
「初めまして、栗田夕貴です。無理に押しかけてしまって、申し訳ありません。そのうえ、お迎えにまできていたいたなんて」
「いえ、私達こそ、とっても嬉しいわ。ここにお客様をお招きできるなんて、思ってもみなかったですから、さ、お乗りになって」
そして、三人は葉子の運転する車に乗って、別荘に向かった。バス停から山荘までは、車では15分ほどだが、歩けば2時間近くはかかるだろうから、現実問題として、やはり送迎は必要だった。透が助手席に、夕貴が後席にひとりで座った。
車での移動中、三人に会話らしい会話は無かった。夕貴はどうやら外の様子を興味深げに眺めているようだったが、透は後ろを振り向くのが怖かったので、助手席で小さくなって固まっているだけだった。
そして、山荘に着くと、まずはテーブルを囲み、葉子が予め用意してくれた、サンドイッチと、サラダを、皆で食べた。食事の際は、主に葉子が、山荘周囲の自然、そこに育つ植物や、動物のこと、山の天候など、当たり障りのないことを、ゆっくりと、教師が生徒に説明するように、話、透と夕貴は、頷きながら、その話を傾聴していた。彼にとっても、葉子からそんな話を聞くのは、初めてだった。
「ところで夕貴さん、体調はいかがなの?」
葉子が不意に夕貴に訊いたので、油断していた透は激しく動揺した。夕貴が妊娠していることは、葉子には話していなかったからだ。
「ええ、問題ありませんが」
「それならいいけれど、長い間電車とバスと車に乗っていたから、気分が悪くなっているかもしれないと思っただけなの。そのうえ、このサンドイッチ、ちょっとバター塗り過ぎて、油っぽかったかなと思って・・・・・・」
「いいえ、とってもおいしくいただきましたわ。それにこのサラダも」
「それは良かったわ」
夕貴の体調に関する話題はそれで終わったので、とりあえず透は安堵したが、今後もこの緊張が続くのかと思うと、憂鬱な気分になった。
「立ち入ったことかもしれないけれど、あなたがたは、交際していたのよね?」
葉子が唐突に質問したので、透と夕貴は、意表を突かれて、互いの顔を見合わせた。しかし、夕貴は彼を置き去りにして、すぐに彼女に向き直った。
「ええ、そうです。すでにお聞きになっていると思いますけど、私と彼は、高校の同級生で、大学入学と同時に、一緒に東京に出てきました。最近まで、二人でよく会っていました」
「私も、透さんからお話を聞いたんだけど、悪いんだけど、彼の話からは、貴方がたの関係が、今一つよくわからなかったの」
「そうだったかな、自分としては、わかりやすく説明したつもりだったんだけど・・・・・・」
「別に貴方を責めているわけじゃないわ。お二人から話を聞くほうが、よりわかりやすいっていうことだと思うわ」
「三か月前までは・・・・・・」夕貴が話を続けた。「普通にふたりで会っていました。彼の部屋にも、時々泊まらせてもらったこともありました。でも、その後、急に会う機会が減ってしまって・・・・・・。当初、彼は授業が忙しくなって、お金も無くなってきたから、バイトもしなきゃ、っていう言い訳をしていました。私も、仕方ないからその言葉を信じていたけれど、この前、もう会えないかもって、急に言われたんです。理由を訊いたら、他に付き合っている人がいるって言うものですから、私、びっくりしてしまって・・・・・・。彼の、嘘がうまくなくて、嘘がつけないところが、好きだったから、とても信じらなかったけれど、でも、嘘じゃないだろうし、とにかく彼に事情を聞いてみたら、付き合っているのは『年上』の女性だっていうから・・・」
葉子はティーカップを口に運びながら、口を挟まずに夕貴の話を傾聴していた。
「年上っていうのは、何歳くらいの人なのかと訊きました。そうしたら、七〇歳くらいの女性だっていうから、私、わけわからなくなってしまって・・・、彼に無理言って、それで、今日こうしてお邪魔させていただいたんです」
「この五月に、ちょうど70になったわ」
「そ、そうなんですね・・・・・・」
夕貴はそこで沈黙してしまった。透も黙っているしかなかったが、葉子から正確な年齢を聞いたのは、この時が初めてだった。
「ま、それはいいとして、彼女の話、間違いないわね」と、葉子は透に向かって静かに訊いた。
「ええ・・・・・・」透はそれだけ言うのが精いっぱいだった。
「私は・・・・・・」
三人の間に沈黙が流れたが、それを最初に破ったのは、葉子だった。
「彼を愛しているわ」
その言葉は夕貴に向けられたものだったが、透の予想に反して、あまりにも断定的な言い方だったので、寧ろ彼のほうがその言葉に圧倒され、その威力によって、彼の存在そのものが、喪失感と孤独の暗い夜の海に沈められ、消されたような気がした。
「でも・・・・・・、やっぱり信じられないです。そんなことが現実に起こるわけないって・・・・・・」
「そうかもしれないわね。でも、信じる信じないは、貴方の自由よ、夕貴さん」
「でもね、葉子さん、誤解しないでいただきたいんです。私、決して貴方のことをお婆さんのくせにとか、そんな思いを抱いているわけではないんです。ただ、そういう状況っていうのかな、50も年の離れた、しかも女性が年上の、そういう関係で、恋愛が成立するっていう、常識って言ったら、語弊があるかもしれませんけど、とにかく、私には、想像すらできなかっただけなんです」
「それは、たしかにその通りかもしれないわね。でも、お世辞ではなく、真正面から私に向き合ってくれた、貴方の凛とした態度は、とても立派だと思うわ。夕貴さんは、透さんのことを愛しているから、こうして遠路はるばる、ここまでやってきて、事情を知りたかったのでしょうから、だから、透さん、あなたが私たちの前で、自分の考えを語っていただかなければならないわ。それが貴方の責任よ。私も、貴方がやっぱり夕貴さんを選ぶというのであれば、その事実をしっかりと受け止めるわ」
もしここに第三者がいれば、この奇妙な三角関係を、現実を思う人など、いないだろうと、透はこの場の雰囲気に不釣り合いな第三者的視点で考えた。しかし、もはや逃げることはできない。明確に自分の考えを伝えなければならない、と思い、気付かれないように深呼吸して、心の準備をした。
「僕は、葉子を愛しています。彼女といっしょにいると、ちょっと表現が難しいんだけど、生きる意味が分かるっていうのかな、そんな気がするんだ」
透の頭の中に、葉子をモデルにしたあの絵が浮かんでいた。
そして再び長い沈黙のあとで、その沈黙を破ったのは、今度は夕貴だった。
「おかしいですよね。私は、目の前で捨てられたのに、ちっとも悲しくないなんて。もし同年代の女性に同じこと言われたら、腹が立って悔しくて情けなくて、どうしようもなかったかもしれないわ。でも今は・・・・・・、夢を見ているような感じ。しかも、それが良い夢なのか悪夢なのか、それさえも分からないような、そんな不思議な夢・・・・・・」
夕貴はそう言って、天井を見上げた後、静かに目を閉じた。
「やっぱり、夕貴さんて、とっても美しくて気品があって、素晴らしい女性だわ。それは断言できるわ」
「ありがとうございます。そのお褒めのお言葉も、とっても不思議な感じね。でも嬉しいわ」
「さあ、ちょっと外にでも出ましょうよ、高原の空気を吸うと、お互いちょっとした気分転換になるわ」
「いえ、いいんです。気を使っていただいて。私、もう帰ります。早めにここを出ないと、今日中に家に戻れないから」
「そう、残念ね。貴方とはもっとゆっくりとお話したかったけれど」
「ありがとうございます。私もです」
「帰りは駅まで車で送るわ」
「いえ、いいんです。歩いてバス停まで行きます。気分転換になりますから」
「それは無理よ、二時間はかかるわ」
「大丈夫です。二時間歩けばいいだけですよね、しかも、来るときに道は見ていましたから。基本的には一本道のようだし。そうすれば、今日中には帰れると思います。実は、こんなこともあるんじゃないかと思って、スニーカー持ってきたんですよ。透のこと、よろしくお願いしますね」
彼女はそういうと、バッグの中から取り出した新品の白いスニーカーを履いて、二人に頭を下げると、力強く歩き出した。後ろは、一度も振り返らなかった。
透も無言で彼女が見えなくなるまで、その姿を見送った。
夕貴は自身の妊娠のことを、一言も言い出さなかった。それは彼女が出産をあきらめたということなのか、今後再度透と話し合うということなのか、その時の彼には判断できなかったが、いずれ彼女と再会することになることは、確実だろうとは思っていた。
そして、葉子が自分のことを愛していると第三者に断言したことについては、嬉しくもあったが、不可解さもより強くなった。彼女は、自分には透を愛する権利はあるが、その逆は認めないということなのだろうか? そのような非対称な愛の形を彼女が押し付けようとしているなら、彼女に対する自分の存在意義は、どこにあるのだろうか?
その時、柏葉均があの絵の中に生きているという彼女の言葉が、彼の心の中に反響し始めていた。
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