1979
完成し、その部屋の壁に架けられた絵を、葉子は見ていた。
「やっぱりすごいわ、素晴らしい絵だわ」
「ありがとう、そう言っていただけると、素直に嬉しいよ」
「絵が完成したので、ようやく貴方のことについて、訊くことができるわね。あなた本当に独学で描画技法を習得したの? とても信じられないわ」
「僕の家は貧乏だから、絵のレッスンなんて、とても無理だったんだ。だから、大学にも行けなかった。行くつもりもなかったけれどね。とにかく、過去のことは思い出したくないな。いい思い出なんて何もないんだ」
「でも、貴方にだって故郷があって、そこでの生活や、思い出があるでしょう? 貴方に思いを寄せていた子だって、いたんじゃなくって?」
「そうかもしれないけど、忘れたよ。過去は、きれいさっぱり置いてきた。だからここに来たんだ。かといって、僕には未来もないけどね。何といえばいいのかな、過去と未来の裂け目に生きている、という感じなのかな。でも、それは現在という言葉で表される時間ではない。それに、生きているという言葉は、適切ではないかもしれない、じゃあなんと言えば良いのか、今の僕には分からない」
「今の言葉が、貴方の、柏葉均という人間の、定義なのね」
「わかってくれた、のかな? やっぱり、僕の目に狂いはなかったようだね。ま、それはいいとして、絵のことに関しては話すけれど、油絵は、バイトで得た収入で絵の具を買って、自己流で始めただけだよ。デッサン会への参加だったら、自己流でもいいかなと思って参加したんだけれど、こうして葉子と知り合えたんだから、その選択は正しかったかな・・・・・・。でも、この絵を君に気に入ってもらえるか、今の今まで、自信はなかったんだ」
「もちろん、気に入ったわ。モデルをした甲斐があったわ。それは間違いない。でも・・・・・・」
「やっぱり・・・・・・、奇妙かな?」
「いえ、奇妙ということはないわ。まずは、絵画として、そして芸術として、素晴らしいと思うわ。こんな肖像画、見たことないわ、あまりにもリアルすぎる。でも単にリアルなだけでは、そういう肖像画を描ける画家は、他にもたくさんいるでしょうね。でも、この絵はただのリアルな肖像画じゃない。気を悪くしないでね、貴方は、私をモデルとして、見た通りにこの絵を描いたのよね?」
「もちろん」
「そうなのね、だとすると、これは私の、四〇年後の姿なのかもしれないわね・・・・・・。最初に会った時に、私が言った通りのことになりそうね、絵の中に生じる底なしの乖離に、引き込まれそうになり、そして、その先に、予言があるって。この絵、私に売ってくださる?」
「そんな、売るつもりで描いたつもりじゃないから・・・・・・。もし気に入ってくれたのだったら、受け取って欲しい。最初からそのつもりで、この壁に架けることを想定して、描いていたから」
「ありがとう、大事にするわ・・・・・・」
「あ、水の流れる音が聞こえてきた」
「ようやく気が付いたのね。そして、貴方と私の絵は、完成し、貴方自身も、この絵の中に生き続ける」
葉子は柏葉の手に自分の手を重ねた。二人は水の流れる音の中に自然に溶け込んでいくかのように、息を潜めて目を閉じた。
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